2017/04/20(木)消えた井伊次郎
戦国期に井伊家が代々使っていた「次郎」の仮名が直政以降使われなくなったことを確認し、その特異性を指摘。ただ、要因は全く見当がつかず。
「井伊次郎」といえば今川家と遠江国の関わりで何度も出てくる存在で、井伊谷で仮名「次郎」を継承している系譜。「井次」と略されつつ永禄9年まで確認できる。
その近世的後継者である彦根の井伊家は「次郎」を名乗ったかというと、それはない。『藩史大事典』による通称名一覧では以下の順番で並んでいる。
直政 虎松
直継 万千代
直孝 弁之介
直澄 亀之介
直興 全翁
「全翁」は隠居名じゃないかという疑問はさておき、その後は、兵助、安之介、金蔵、又五郎、金之介、又五郎、金之介、又五郎、?、庭五郎、弁之介、鉄三郎、愛麻呂と並ぶ。ちなみに有名な直弼は鉄三郎。
じゃあということで『寛政譜』を当たる。こちらには直政より前が記されているし、もう少し詳しい。直政より前代を見る。
直宗 宮内少輔
直満 彦次郎
直盛 虎松、内匠助、信濃守
直親 亀之丞、肥後守
直政 虎松 万千代、兵部少輔、侍従
何とも謎なのが綺麗に「次郎」を消していること。
同時代史料を全て見た訳ではないが、直政自身が「次郎」を名乗ったものは見つけられていない。彼が従五位下に叙任されたのは天正16年4月なので、それ以前は仮名も使わずに「兵部少輔」一本で貫いたことになる。次郎を避けたのは直政からという認識でよいと思う。
そこで、井伊と同じように側近から急成長した榊原家を見てみる。
清長 孫十郎、七郎右衛門
長政 孫十郎、七郎右衛門
清政 孫十郎、七右衛門
康政 童名亀、小平太、式部大輔、従五位下
忠政 国千代、五郎左衛門、外祖父康高の養子
忠長 伊予守、従五位下、
康勝 小十郎、遠江守、従五位下
忠長が受領名しか伝えられていないが、これは15歳以前に叙任したことと慶長9年に20歳で早世したことが影響しているのか、たまたまなのか。
叙任との関係性ということで、高家の吉良家を見た。
義定 三郎、上野介、寛永4年死
義満 民部、左兵衛督、慶長13年に13歳で従五位下に叙任、左兵衛督に改める
義冬 左京大夫、若狭守、侍従、寛永3年に20歳で若狭守に叙任
義央 三郎、左近、上野介、侍従、明暦3年に16歳で従四位下侍従となり上野介を名乗る
無官だった義定はさておき、20歳叙任の義冬が仮名を残さなかったのに対して、16歳で父より上位に叙任された義央が曾祖父と同じ「三郎」を名乗っているということは、義満・義冬も共に三郎を名乗ったものの伝わらなかっただけという可能性が高い。
徳川重臣の主だったところを見ても、藩祖の仮名は確実に伝えられている。
洒井忠次 小平次、小五郎
本多忠勝 鍋之介、平八郎
本多正信 弥八郎
やはり時代を遡ってまで「次郎」を消し、直政も忌避した点が特異に感じられる。
また更に、井伊谷の近在にいた高家・大沢家も仮名を持たない。しかもこちらは、今川家の関連文書を見ても「左衛門佐」という官途しか出てこない徹底ぶり。
一体どういう現象なのだろう……。