2018/03/26(月)戦国時代の掃除さぼり

掃除を命じられた町人たち

後北条氏の本城である小田原での掃除を命じた文書が伝わっている。命じられたのは小田原の船方村。

毎月の大掃除で、人足100人以上を出すように!

定置当社中掃除法
右、任先規、自欄干橋船方村迄宿中之者、人足百余出之、可致掃除普請、自当月於自今以後、毎月当城惣曲輪掃除之日可致之、何時も掃除之前日、西光院・玉瀧坊遂出仕、添奉行可申請、如此定置上、掃除於無沙汰者、西光院・玉瀧坊可処越度候、扨又朝夕之掃除之事者、両人可申付候、仍定処如件、
元亀三年五月十六日/(虎朱印)/西光院・玉瀧坊

  • 戦国遺文後北条氏編1598「北条家朱印状」(蓮上院文書)
  • 小田原市史小田原北条1107「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)

定め置く当社中の掃除法。右は、先の規定のように、欄干橋より船方村までの宿中の者たちが人足を100余人出し、掃除普請をするように。今月以降は毎月の当城惣曲輪掃除の日に行なうように。何れも掃除の前日は西光院・玉瀧坊に出向いて、奉行を随伴して作業を受けるように。この定め置きがある上は、掃除を怠った場合には西光院・玉瀧坊の過失とするだろう。そしてまた、朝夕の掃除の者も両人(西光院・玉瀧坊)が指示するように。

小田原船方村

この中の「【分割】小田原市歴史的風致維持向上計画(第2章)」のPDFを参照したところ、船方村の記載があり、近世の千度小路を指すようだ。

先の朱印状では、この在所から欄干橋までの掃除を命じられている。

「掃除普請」とあることから、破損部分があれば修繕することも含まれるのかも知れない。また、毎月1度小田原城で「惣曲輪掃除の日」があったらしい。参加者は西光院と玉瀧坊で出欠をとり、(恐らく両寺院から出した)奉行を同伴するよう指示。これを怠ると、西光院・玉瀧坊の過失とすると定めている。更に、朝夕の掃除も西光院・玉瀧坊に指示したとされている。

毎日朝夕2回の細かい掃除と、作業員100名以上を出しての毎月1回の大掃除。これは厳しいと思うのだけど、案の定サボタージュして怒られている。惣曲輪掃除の日か朝夕の掃除か、または新たに賦課された掃除かは不明だが、船方村の人足が20名不足したらしい。

首に縄を付けてでも……

当社中晦日掃除人足之内、舟方村より廿人不罷出由、申上候、自古来相定候処、曲事ニ候、頸ニ縄を付引出、普請可申付候、及異儀者、可遂披露、可処厳科旨、被仰出者也、仍如件、
丑十一月二日/(虎朱印)江雪奉之/西光院・玉瀧坊

  • 戦国遺文後北条氏編3758「北条家朱印状」(蓮上院文書)
  • 小田原市史小田原北条2096「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)

当社中で晦日の掃除人足のうち、船方村よりの20人が出てこなかったとのこと報告があった。古来より定めたところで、曲事である。首に縄を付けてでも引き出し、普請を指示するように。異議を唱える者は報告せよ。厳しく罪に問うだろうと仰せである。

いつ怒られたのか

この時の虎朱印状は年未詳だが、1572(元亀3)年以降で「丑」と記載されているので以下の年が候補となる。

  • 1577(天正5)年
  • 1589(天正17)年

小田原市史でも、奉者が板部岡融成である点から天正5年か天正17年のどちらかだろうと推測している。

掃除規則を「自古来相定候処」としているから、制定した元亀3年から5年後の段階で「古来より定めていた」と書くのは大袈裟過ぎるようにも見える。とはいえ、天正17年では氏直体制に完全に入っている。「首に縄をかけてでも」という感情的な表現は氏政体制でよく見られるため、天正5年比定も捨てがたい。

一つ留意したいのは、天正17年11月2日だとすると、通説で11月3日とされる名胡桃事件の前日に当たるという点。氏直釈明状によると、替地と称して上杉方が名胡桃を接収するという噂が流れ、それに対処して名胡桃を取ったとされている。かなりの緊張状態にあった筈であり、感情的な表現を使ってしまった可能性はある。

比較的のんびりしていた時期に氏政が激して書いたのか、名胡桃案件でピリピリしていた氏直がつい強めに警告してしまったのか。非常に興味深い。

2018/02/22(木)家康へのキレ方が氏直・秀吉で似ていた件

僅か9日の間に、敵味方の当主から同じような論調の文句を言われている徳川家康。

  • 北条氏直「上洛が遅れたとかいうけど、12月でも1月でも2月でもいいじゃないか」

  • 羽柴秀吉「3月1日の出馬が遅いって、じゃあ2月1日でいいよ。急げというなら1月1日にするか?」

北条氏直が羽柴秀吉への取り成しを依頼する

翻刻

従京都之御書付給候、并御添状具披見、内ゝ遂一雖可及貴答、還相似慮外候歟之間、先令閉口候、畢竟自最前之旨趣、貴老淵底御存之前、委細被仰候者、可為本懐候、猶罪之被糾実否候様所希候事、一両日以前以使申候キ、津田・冨田方へ申遣五ヶ条入御披見上、重説雖如何候、猶申候、名胡桃努自当方不乗取候、中山書付進之候キ、御糾明候者、可聞召届事、一、上洛遅延之由、被露御状候、無曲存候、当月之儀、正、二月にも相移候者尤候歟、依惑説、妙音・一鴎相招、可晴胸中由存候処、去月廿余日之御腹立之御書付、誠驚入候、可有御勘弁事、右之趣、御取成所仰候、恐々謹言、
十二月九日/氏直(花押)/徳川殿

  • 小田原市史小田原北条1986「北条氏直書状写」(古証文五)

解釈

京都よりの書付をいただきました。合わせてお添えいただいた書状も拝見しました。内々で逐一お答えいただいていますが、繰り返し「慮外ではないか」とのこと、まずは閉口しております。
 結局、以前からの趣旨は貴老も隅々までご存知でしょう。詳細を仰せいただければ本懐に思います。そして罪の実否をお調べいただけることを強く願います。一両日前に使者を送って申しましたが、津田・冨田方へお送りした5ヶ条をお読みいただいた上で、重ねての説明もどうかとは思いますが、更に申します。
 名胡桃は当方が乗っ取ったものではゆめゆめありません。中山書付を進上しましたから、お調べいただければお聞き召しいただけると思います。
 一、上洛遅延とのこと、御状に書かれていますが、つまらぬことです。当月のことは、1月、2月にも移せばよいことではありませんか。惑説があったので、妙音院・一鴎件を招き胸中を晴らそうと考えていたところ、先月20何日かのご立腹の書付があり、驚いています。よくお考えいただけますでしょうか。
 右の趣旨でお取り成しをいただきたく。

羽柴秀吉が3月1日の出馬を通告し、国境警備・兵粮準備を依頼する

翻刻

芳札披見候、誠今度者早々依帰国、残多覚候、仍関東堺目無異義旨尤候、今少之間ニ候、弥無油断可被入精候、就其北条懇望之由、如書中何共申候へ、京都ハ御赦免之不沙汰、不及言舌儀候、自然号御侘言書状等持参者候者、可被為生涯候、随而御出馬相延候程可然旨、異見無余義候、然者三月朔日を二月一日ニ可被成候哉、急候て可然との事候者、正月一日も可有御動座候、其外御延引者一切不可成候、惣別於駿遠御越年程ニ雖被思召候、諸卒用意如何与、三月朔日之御出馬ニ被相究候、次兵粮米調之儀、成次第可有馳走候、自此方過分ニ被為悉候条、被闕御事候事、不可在之候間、可御心安候、猶浅野弾正少弼可申候、穴賢、
極月廿八日/秀吉(花押影)/駿河大納言■■

  • 豊臣秀吉文書集2873「羽柴秀吉書状写」(二条文庫)

解釈

ご書状拝見しました。本当に今度は早々の帰国となり、心残りが多くあります。
 さて関東境目に変わりがないのはよいことです。今少しの間です。ご油断なく、ますます精を入れられますように。それについて北条が懇願しているとのこと、ご書状の中にもあったように、何を言おうと京都ご赦免がないことは言辞に及びません。万が一、お詫び状などを持ってきたなら、その者を殺して下さい。
 そしてご出馬を然るべく延期する件、この意見は余儀のないものです。(以下は、先行する家康書状は出陣を急かす内容だったと思われ、その返答になっている)では、3月1日を2月1日にすればよいのでしょうか。急ぐのが良いなら1月1日でもご動座があるでしょう。そのほかのご延引は一切ありません。総じて、駿河・遠江において年越しなさるお積りだとしても、諸卒の用意はどうなるでしょうと、3月1日のご出馬にお決めになりました。
 次に兵粮米を調達する件ですが、可能な限りでご用意下さい。こちらからは余分に準備しますから、不足することはありません。なんでご安心下さい。
 更に浅野弾正少弼が申します。

2017/09/05(火)言継卿記に見る今川家と蹴鞠

今川義元と氏真は蹴鞠をしたのか

蹴鞠に関して同時代史料が残る後北条・織田に挟まれながら、今川では義元・氏真の代では蹴鞠の所在を示す史料が見当たらないとTweetしたところ、言継卿記の弘治3年3月の条に、今川家での「鞠」の記述があるとTwitterでフォロワーさんにご教示いただき、改めて読んでみた。

  • 国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919209

141コマ目

概要

3月29日に、前年から駿河に滞在していた山科言継はいよいよ帰洛することになり、駿府貴顕に暇乞いをしている。

この時に今川義元は蒲原右衛門尉を使者として「鞠一足」を贈っている。これは太刀千疋とは別に書かれているので、言継の蹴鞠好きを知って特別に贈ったような感じがする。息子の氏真は各和某を使者にして太刀を贈っているが、数量を言継は書いていない。ごく簡素なものだったのかも知れない。

翌日、斎藤弾正忠が言継のところへ挨拶に来たので華撥円という薬を渡している。この時、斎藤を介して蒲原右衛門尉にも薬を渡した。それを受けたのか、蒲原は使者を立てて鞠を渡している。

次自蒲原右衛門方使有之、五郎殿に申鞠一足送之

次いで、蒲原右衛門方より使いこれあり、五郎殿に申して鞠一足これを送る

この文章がややこしいのだけど「五郎殿に申」が、蒲原使者からの口上だとすると自然に読める。前日に蒲原は義元使者として言継に鞠を届けており、自らが礼を返す際に「鞠なら言継は喜ぶ」と判っていた。ところが自分では持っていなかったので、氏真に鞠を貰って、それを贈ってきた。

氏真に蒲原が「鞠を贈ってはどうか」と打診して、鞠は氏真が贈ったという解釈もできそうだが、義元・氏真・寿桂から貰った場合に言継は「被送之」と書いているのに対し、この文では「被」が入っていない。なので、蒲原からの贈り物であると判る。

原文

  • 3月29日(抜粋)

    次太守、五郎殿、朝比奈備中守、大方等へ暇乞に罷向、申置了、牟礼長門守、甘利等同道了、次蒲原右衛門尉、自太守為使鞠一足被送之、勧一盞了、次太守礼来儀、太刀千疋被送之、五郎殿各和為使太刀被送之、

  • 3月30日(抜粋)

    林際寺之禎主座聚分韻二部被送之、次斎藤弾正忠暇乞に来、華撥円三貝遣之、蒲原右衛門に三貝言伝了、次自蒲原右衛門方使有之、五郎殿に申鞠一足送之、次自御屋敷大方、浜納豆一筥賜之、次矢部縫殿丞木綿二端送之、次神尾対馬入道暇乞に来、沖津鯛一折、鳥目三十疋送之、中御門へ華撥円三貝言伝了、次牟礼備州、甘利佐渡守等送に来、勧一盞了、次朝比奈左京亮来、太刀二百疋、父備中所労云々、太刀千疋送之、勧一盞了、

とりあえずの考察

以上から考えると、今川義元と氏真は鞠を所持していたことは確実となる。また、餞別として義元が言継に鞠を贈った点から見て、駿府滞在中に蹴鞠の話が出てきて、言継の愛好ぶりを義元が知ったという点は確実だと思われる(言継が蹴鞠を楽しんでいたことは日記の他の部分から窺える)。

また、蒲原が氏真に鞠をねだって言継に渡したことは、義元・氏真は鞠を持ち知識を持っていたとしても、今川家中での蹴鞠はそれほど認知されなかった可能性を示す。

実際、弘治2年9月24日に駿府に到着し翌年3月1日に出立するまでの間に蹴鞠が興行された記載はない。

今川氏親や氏延の代には免許を貰っている実績はあるものの、時代が下り義元や氏真の代になると熱気は収束していったのかも知れない。