2017/06/12(月)北条氏康の「次男」は誰か?

1552(天文21)年3月21日に長男が亡くなると、氏康の次男氏政が繰り上がりで長男となる。

この後、1555(弘治元)年11月~翌年10月の間に、北条氏康の次男が頻出する。「藤菊丸」は古河公方・座間との関係性から見て北条氏照であり、伊豆若子は助五郎の仮名を持つ北条氏規である可能性が高いとされる。

  • 弘治元年11月23日の足利義氏元服式に登場する「北条藤菊丸氏康二男」
  • 弘治2年5月2日座間鈴鹿明神社棟札にある大檀那「北条藤菊丸」
  • 弘治2年10月2日『言継卿記』で駿府にいた伊豆若子「大方の孫相州北条次男也」

これは、古河公方を初めとする関東には氏照が次男、今川義元を初めとする上方には氏規が次男という二枚舌を氏康が用いたことになるのだが、そのようなダブルスタンダードを安易に用いるのだろうか。ここに疑問がある。

氏規が言継に次男と認識された背景には、既に氏照が大石家の養子になっていて繰り上がったのではとも指摘されるが、藤菊丸は一貫して「北条」であり「大石」ではない。藤菊丸はあくまで氏規で、弘治2年5月以降に駿府へ移り、その後を幼名不詳の氏照が継承した可能性は存在する。

氏照は「委細息源三」(氏康)「氏政舎弟北条源三」(輝虎)「委細弟候源三可申候」(氏政)と書かれていて、次男であるという記載はない。これは助五郎氏規も同様である。ただ、氏照が「奥州様」と呼称される一方で氏規は「美濃守殿様」と呼ばれることもあり、格差はありそう(埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」)。

この点から、氏規は一貫して次男待遇であり、藤菊丸だった可能性もまた同様に高いのではないかと思われる。氏照は氏規より年下だった可能性も検討すべきではないかと思う。

2017/06/12(月)後北条奏者を悩ませた「不動院問題」 その2

翻刻・比定が埼玉県史料叢書で大きくアップデートされていた

以前考察した後北条奏者を悩ませた「不動院問題」で、解釈の元に据えた文書の翻刻文・比定が埼玉県史料叢書12で更新されていることに気づいた。この変更によって戦国遺文後北条編とは解釈が異なるため、差異点をいくつか挙げてみる。

新:埼玉県史料叢書12_付144「垪和康忠書状写」(寺院証文一)

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我事も去比者御次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原玉瀧坊致様与存過来候、今度上洛ニ付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間、前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻之義者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通をも致糺明、奥州得御内儀、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得貴意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)

旧:戦国遺文後北条氏編4200「垪和康忠書状写」(寺院証文一)

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我事も去比者御次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原国ゝ新坊致様与存過来候、今度上洛候付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻被成者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通、近日致糺明、奥州得御内儀候、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得其意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)

解釈文の変更は、大きなものが2点。前の記事から変更になったところを赤字で表記。

ご書状を拝見しました。さて不動院のこと。先日江雪斎によって御用などで走り廻りました。手筋が相違したところを、陸奥殿へご報告になったのでしょうか。いかんともしがたいことと思います。

私も以前取次をさせていただきましたが、近年相違があって心元なく思っていました。そうはいっても、小田原の玉瀧坊が行っているだろうと過ごしていました。

今度の上洛については、当地からの出発準備などのことでお願いをされ、前に取次をしていましたから、その件は5日以前に披露しました。

そうしたところご書状が昨日11日に到着。拝見したところ、月輪院に対して慮外で身びいきな仕立てであると書かれていました。このような企ては初めて聞きました。兼ねてから知っていたなら、その事情も申していたでしょう。知らずにいたのでこのようになりました。

今度の一連の出来事は報告した上でのことです。重ねて、その者の存分の通りをも調査します。奥州にも内々の諒解を得ます。月輪院のおためになるよう、しかるべく調整します。

岩付領に屋敷以下を与える件は、何も聞いていません。その状況は私が把握できます。本当に知らないのです。聞いていたらお伝えしています。

今度のことは、八幡大菩薩にご照覧いただきたい程です。ご飛脚が以前報告したことは、その意を得るでしょう。

「天神島」という人物の比定

この他に、埼玉県史料叢書ではこの文書の宛所を一色義直としている。下総の天神島にいたという比定。これを補強するものとして、天正18年に一色義直が浅野長政に送った書状で使者が「不動院」と明記されている点を挙げている。

昨日者、不動院を以啓上候、岩付素城ニ被成候、心地好御仕合、不及是非候、定而三日中落居必然与存候、此口各ニ雖仰付者無之候、何分ニも某事令得御下知候、委細八島久右衛門尉方へ申渡候、恐々謹言、
五月廿一日/宮内太輔義直(花押影)/浅野弾正少弼殿御宿所
埼玉県史料叢書12_0922「一色義直書状写」(賜蘆文庫文書十三)

一色義直は、古河公方被官である一色直朝(月庵)の嫡男とされている。

『後北条氏家臣団人名辞典』によると、一色直朝は幸手城主で、天神島城下にも屋敷があった。相模国十二所の月輪院は古河公方足利氏の護持僧の寺院であったが、一色直頼の弟増尊は月輪院僧で以後は月輪院の僧は一色氏から出すことになったという。天正4年5月5日に飛鳥井自庵が古河を訪れた際は、氏照と共に饗応役をつとめた人物。1597(慶長2)年没。

月庵(義直)が月輪院と関わったのは以下の文書を参照。

同名河内守一跡之事并東大輪郷、為院領進置候、速可有御知行候、恐々敬白、
永禄十二年十月廿一日/月庵(花押影)/月輪院
埼玉県史料叢書12_0375「一色直朝寄進状写」(寺院証文一)

暫定の考察

  1. 天神島は一色義直、不動院はその使者でどちらも下総在。
  2. 月輪院・氏照ともに義直に非常に近しい存在。
  3. 天神島の奏者は当初は垪和康忠で後に玉瀧坊となっていた。
  4. 不動院と板部岡融成を巡って何らかの錯誤が存在した可能性が高い。
  5. 岩付屋敷が訴因らしいが被疑者が書かれておらず未詳。
  6. 天正18年には羽柴方にしっかり転向していることから、一色義直は京と繋がりがあったか。

2017/06/10(土)稲河文書の松平清康・清孝

松平清康・清孝が発給したとされる文書のうち、愛知県史資料編10に収められた稲河文書の974号・975号について、翻刻の文章で違和感を覚えた点を整理してみる。どちらの文書も影写本で、愛知県史では「検討の余地がある」としている。

但しこの違和感は私の限られた知識によるもので、他に表現や文例があるようであればご指摘を待つ。

清孝判物について

今度忠節無比類候、如本意候者、若松之郷不入候、并杉山分蔵一つゝ并土蔵之儀ハ、両人江進入候、万一聞候而不相調候者、大畠・そふみ於両郷三拾貫分可進之候、扶持ハ六人扶持ニ可申合候、居敷之儀ハ、寺道より西方を両人江進之候、仍如件、
大永三年八月十二日/次郎三郎清孝(花押)/中根弥五郎殿進之候
愛知県史資料編10_0974「清孝判物」(稲河文書)

奇異に感じる部分

  • 「~郷不入候」という表現は見覚えがない。若松郷を既に中根弥五郎が当知行していたのかも知れないが、その点を書かないのは不自然に感じる。

  • 蔵を与えるというのも例がない。杉山分の蔵を1つずつと、土蔵のこと、としている。また、この評価金額がない一方で「それで調整できなければ」と出した大畠・そふみの両郷で30貫文を拠出すると今度は具体的な数量を示している。ちぐはぐな印象を覚える。

  • 宛所が1名なのに「両人」が何者か書かれていない。

  • 扶持人数を定める文章。後北条氏・今川氏に見られるが、愛知県史資料編10を見ても松平氏関連では出てこない。時代的・地域的に見て不自然。下記の文書に形式が似ているかも知れない。

遠江国久津部郷之事
右、当郷除諸給分、一円令扶助畢、息郷八郎為近習可令在府之由、尤以神妙也、但蔭山与次方・岡部又次郎給分者、於国静謐之上者、以別所可充行于彼両人、其時五拾貫拾人扶持分、重而可令扶助者也、仍如件、
天文八己亥年九月晦日/治部大輔(花押)/松井兵庫助殿
戦国遺文今川氏編0634「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

清康書状について

書状披見候、実子之候ニ其子にハ職候て他人ニ職候事、当劣之沙汰にハ不可出候、雖然別成理も候ハんハしり候ハす候、実子之跡職うハひ取候ハん者ハ可為盗候、謹言、
三月十一日/(花押)/宛所欠(端裏上書:中根弥五郎殿 清康)
愛知県史資料編10_0975「清康書状」(稲河文書)

奇異に感じる部分

  • 「当劣之沙汰」という表現は例がない。

  • 実子に相続させることを無条件に指示している内容も違和感がある。天文23年のものだが、戦国遺文今川氏編1165「今川義元判物」では「其上或実子出来、或自余之聟・親類・縁類等、雖企競望、甚右衛門尉譲状明鏡之上者、一切不可許容」とも書いていて、何が何でも実子相続という訳ではなかった。「実子之跡職うハひ取候ハん者ハ可為盗候」という強い表現も他では見たことがない。当時の西三河でこの規範があった可能性はあるが、愛知県史では見つけられなかった。

  • 跡職について書かれた書状なのに、2回「跡」が脱字しているのも少し変ではある。

花押について

2つの文書の花押は異なり、前者の花押は松平信孝・松平康忠に近しい印象があるが、似ているという程ではないように感じる。後者のそれははっきりと広忠花押に似ているように見える。

出典の稲河文書について

戦国遺文今川氏編にも収録されている。稲河大夫の子である松(千代)が馬淵経次郎の跡を継いだが死去し、その弟の又三郎に相続を認めている。

馬淵経次郎跡職事、稲河大夫子松■■為相続増善寺殿判形明鏡也、雖然就死去、弟又三郎仁領掌畢者、守先例神事祭礼等、不可有怠慢者也、仍如件、
天文六丁酉年六月十三日/義元(花押影)/馬淵又三郎殿
戦国遺文今川氏編0600「今川義元判物写」(稲河文書)

この文書に先行するものが、富士家文書という別出典に入っている。死去した松千代が馬淵経次郎(弥次郎)の跡を継いだというもの。馬淵大夫は駿府浅間社の社家で、稲河大夫は同僚だったか。

馬淵弥次郎跡職之事
右、令沽却本知行遂電法体云々、然上者、改其跡領掌稲川大夫息男松千代丸畢者、恒例祭祀、守先規可令勤仕之状如件、
大永三年十二月十九日/修理大夫(花押)/馬淵松千代殿
戦国遺文今川氏編0373「今川氏親判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

両文書は表現に違和感がない。中根弥五郎宛の文書がどこで稲河文書に入ってきたのかは不明だが、少なくとも1523(大永3)年時点で中根弥五郎と稲河大夫は三河・駿河に分かれて存在しているようだ。三河の中根氏は戦国遺文今川氏編2749号「本証寺門徒連判状」(天文18年4月7日付)で味崎の中根善次郎範久・善三郎範定・善七郎範重が登場するので、中根弥五郎はこの一族かも知れない。

まとめ

翻刻の文を見たのみの感じではあるが、愛知県史が要検討としたのは納得がいくところ。

何れにせよ、この文書を元に松平清康の実在を検証するのは厳しいのではないかと思う。関連論考を読みつつ更に考えてみたい。