2026/07/27(月)開示データまとめ
今までに公開してきたデータのリンク。データに誤りがあった際はコメントを送って下さい。
古文書・古記録のデータ
コーパス
これまでに入力した11,433件の史料(古文書・古記録)をリスト化したもの。月日についてはソート順を保つため「★01_閏月01日」という記載にしている。
言継卿記に関するデータ
言継卿記(今川分国部分)人名データリスト
山科言継が駿府に滞在した記録に出てきた人名の中で、本人特定が可能な者をデータ化。
言継卿記(今川分国部分)フルテキストドキュメント
山科言継が今川氏分国に滞在した1556(弘治2)年9月18日~1557(弘治3)年3月16日をテキストデータ化したもの。
後北条氏関係者人名
後北条氏関連人物過去帳 人名データリスト
高野山高室院の過去帳データをまとめたもの。高野山高室院月牌帳(寒川町史)と、北条家過去帳(平塚市史)のそれぞれでデータを分けている。
後北条氏家臣団辞典索引 人名データリスト
『後北条氏家臣団辞典』の索引にある人名を列挙したもの。仮名・官途で検索できる。
後北条氏所領役帳
所領役帳 フルテキストドキュメント
後北条氏が1559(永禄2)年に作成した被官の知行高を列記したもの。直轄領は含まれていない。
所領役帳 データリスト
所領役帳に載っている数値部分を集約し、被官人ごと、衆ごとにまとめたもの。動員兵数の推測つき。
所領役帳の給地一覧 マップ
GoogleMapを使用して、各衆別に所属被官の給地をポイント。
その他
史料辞書
古文書を入力する際に使っていたユーザー辞書。元号と西暦の変換、略称によるショートカットなどがある。
織田信長の贈り物
織田信長の返礼状から、もらった物を列挙してみた。結構細かい物資もある。
rek_wp_version
2007年8月~2017年3月までの古文書データ、解釈記録を記したもの。
Twitterアカウント
思いつきをそのまま呟いたもの。あまりまとまっていないので要注意。
パラ∥フレーズ~史料探偵の異解釈 知識ゼロの高校生が『歴史』を変えるまで~
いわゆる桶狭間の合戦や、北条氏政妻の行方などをあれこれ推理していく小説。引用した史料は全文と解釈をつけている。
パラ∥フレーズ【増補改訂版】
初版での説明を補強し、いくつかの仮説を追記したバージョン。
ALS記
アメブロで罹患したALSの記録を書き綴ったもの。
2023/03/23(木)公開したデータ一覧
今までに公開してきたデータのリンク。データに誤りがあった際はコメントを送って下さい。
古文書・古記録のデータ
コーパス
これまでに入力した11,437件の史料(古文書・古記録)をリスト化したもの。月日についてはソート順を保つため「★01_閏月01日」という記載にしている。
言継卿記に関するデータ
言継卿記(今川分国部分)人名データリスト
山科言継が駿府に滞在した記録に出てきた人名の中で、本人特定が可能な者をデータ化。
言継卿記(今川分国部分)フルテキストドキュメント
山科言継が今川氏分国に滞在した1556(弘治2)年9月18日~1557(弘治3)年3月16日をテキストデータ化したもの。
後北条氏関係者人名
後北条氏関連人物過去帳 人名データリスト
高野山高室院の過去帳データをまとめたもの。高野山高室院月牌帳(寒川町史)と、北条家過去帳(平塚市史)のそれぞれでデータを分けている。
後北条氏家臣団辞典索引 人名データリスト
『後北条氏家臣団辞典』の索引にある人名を列挙したもの。仮名・官途で検索できる。
後北条氏所領役帳
所領役帳 フルテキストドキュメント
後北条氏が1559(永禄2)年に作成した被官の知行高を列記したもの。直轄領は含まれていない。
所領役帳 データリスト
所領役帳に載っている数値部分を集約し、被官人ごと、衆ごとにまとめたもの。動員兵数の推測つき。
所領役帳の給地一覧 マップ
GoogleMapを使用して、各衆別に所属被官の給地をポイント。
その他
史料辞書
古文書を入力する際に使っていたユーザー辞書。元号と西暦の変換、略称によるショートカットなどがある。
織田信長の贈り物
織田信長の返礼状から、もらった物を列挙してみた。結構細かい物資もある。
rek_wp_version
2007年8月~2017年3月までの古文書データ、解釈記録を記したもの。
Twitterアカウント
思いつきをそのまま呟いたもの。あまりまとまっていないので要注意。
パラ∥フレーズ~史料探偵の異解釈 知識ゼロの高校生が『歴史』を変えるまで~
いわゆる桶狭間の合戦や、北条氏政妻の行方などをあれこれ推理していく小説。引用した史料は全文と解釈をつけている。
2023/01/24(火)上杉南下に対しての、今川・武田の後北条支援
後北条・今川の反応と経緯
永禄3年9月23日に義氏が沼田口に越後方が来ると報じたのが最初で、この時氏康は上野国での迎撃を企図していた。その後12月2日に河越籠城の準備に入ったが、切迫感はまだない。一方の西三河では、12月24日に武節城が攻められており、挙母から北方へ戦線が移っている。ただ、その後合戦に関する氏真文書は発せられておらず、戦線は膠着したか。氏政が後に小倉内蔵助へ「旧冬以来至当夏河越籠城」と書いているのと合わせて考えると、この頃に今川方援軍が河越に入ったのだろう。
事態が大きく動いたのは翌年2月25日、浦賀に移る予定だった吉良氏朝を玉縄に入れるよう指示。ここから緊急モード移行。
武田からの援軍
武田晴信の3月10日書状が興味深い。加藤丹後守が由井へ進駐しようとしたところ謝絶の返答があったらしく混乱。小田原には既に跡部二郎衛門尉が入ったので上口から進軍しようとしたが、葛山の返答が曖昧だったため、下口からの進入を図って御厨周辺の調整をしている。上口は箱根口、下口は河村口を指すようだ。
- 戦国遺文今川氏編1656「武田晴信書状」(2012年国際稀覯本フェア日本の古書・世界の古書)1561(永禄4)年比定
加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原へ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如申候、被聞届注進待入候、恐々謹言、
三月十日/信玄(花押)/宛所欠
この段階で今川方の葛山氏元は小田原支援に消極的だった。3月24日の宗哲書状で氏真自身が出馬するだろうとあるが、氏真の文書を見てもその動きはなく、義元敗死に伴って急遽もたらされた当主継承を受けて、分国統治に向けての経営に専念している。
氏真の対応をまとめると、西三河が一息ついた12月下旬に旗本衆の何人かを小田原に派遣、但しその後は積極的に動かずという動向だと思われる。
1560(永禄3)年
- 9月23日「就越国之凶徒沼田口令越山」義氏
- 9月28日「上州沼田谷越衆出張、依之至于河越出馬候」氏康
- 12月2日「就此度河越籠城赦免条ゝ」氏康・氏政
- 12月27日「不断勤行、本意祈念可有之者也」氏康
- 12月28日「今月廿四日武節本城へ敵取懸之処」氏真
1561(永禄4)年
- 2月10日「今度当城楯籠可走廻候由候」氏政
- 2月25日「今朝直ニ申付候蒔田殿浦賀御移之事」氏康
- 3月10日「加藤丹後守由井へ相移候之処」晴信
- 3月24日「今川殿近日可有出馬候」宗哲
- 4月8日「為駿府御加勢、旧冬以来至当夏河越籠城」氏康・氏政