2017/04/21(金)要検討史料 松田政晴の場合

よく出てくる「検討を要す」の文書を、出所から追ってみた。近世にも戦国マニアがいて、色々と活動しているのだなと。

笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。

「今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候」天正八年八月十六日/御判/笠原新六郎殿戦国遺文後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

「この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します」

笠原政晴は松田憲秀の次男で、笠原千松の陣代となり、伊豆徳倉城番に入った後に武田勝頼に与した。武田家滅亡後の所在は不明で、僧になったとも、小田原で処刑されたとも言われている。遺児が紀州家にでも仕官したのかと不思議に思った。

ということで、和歌山県立文書館が刊行した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を閲覧してみたところ、どうやら明確な繋がりはないようだった。

この書籍は、紀州家の家臣を表で列挙してくれている。まず政晴の本姓である松田家も存在したものの、別の家である可能性が非常に高かったため転記から外した。一方、笠原家には後北条家臣だった家と相関性が見られた。

3530 親 笠原 祖:助左衛門 父:助左衛門 提:助右衛門奥付に[文化十二年亥何月 笠原新六郎]の雛形付箋あり。表紙・後表紙欠。文化元・4

3531 親 笠原新六郎 大御番 祖:助左衛門 父:助左衛門 惣:新一郎 提:新六郎政戴 文化14・5

3523 系 笠原新一郎 大御番 元:助左衛門氏隆→2:助左衛門氏則→3段右衛門景任→4新六政起(隠居静久)→5藤左衛門政晨→6新左衛門正武→7助左衛門正備→8助左衛門政種→9助左衛門政戴(隠居休道) 提:新一郎政勝 天保6・2

※冒頭の数字は資料番号。末尾は提出日。「親」は『親類書』、「系」は系譜書を指す。また、「提」は提出者のこと。

文化・天保というと近世もだいぶ後半だ。まず注目したのは、そのものずばり「笠原新六郎」がいるという点。提出者は新六郎政載で、仮名が同じであって諱の「政~」も同じである。この18年後に出された同家の先祖書きがあり、それによるとこの家の初代と2代目は助左衛門を名乗っているのは同じで、通字は「氏~」。3代目でどちらも該当しない人物が入る(養子?)。4代目からは「政」か「正」を通字に統一している。仮名は新六郎に近しい「新六」の後に、笠原康明と同じ藤左衛門となり、以降はまた助左衛門に戻されている。

この記述には混乱も見られる。新一郎政勝が提出した先祖書きには9代目として前述の政載がいる。政載本人が提出した際には自身を「新六郎」と名乗っていたが、(恐らくその息子であろう)新一郎政勝の先祖書きの政載の仮名は「助左衛門」と変えられている。ここはよく判らない。

他家史料でいうと、松坂城主だった古田家が1615(元和元)年に国替えとなり同城が紀州家預かりとなった際に、大藪新右衛門尉・井村善九郎とともに笠原助左衛門が接収に赴いている。恐らく初代か2代目の助左衛門だろう。推測すると、政載は新六郎と名乗ったが、本来は助左衛門が通例であって、息子の代で戻したということか。

何れにせよ、助左衛門という名は後北条家臣の笠原氏には見えない。近しいところでいうと康明の近親と思われる助八郎はいるものの、史料が限られていて係累は不明。

前掲の徳川家康書状写も文言に奇妙な部分が見られ、もしかしたら政載が作ったものかと思えてくる。

「今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候」

家康の高天神攻めは、わざと時間をかけて「勝頼は後詰しない」ことを立証する長期戦だった。この戦いを目前に控えて家康が喜ぶほどの「契約」とは何か。兵粮支援や援軍ならその旨を明確に書いている例が多いし、ここで「契約」の語を使う意図が掴めない。大名間のやり取りで政晴が取次だったとしても、当主氏直の名が全く出てこない点も不可解だったりする。また、太刀を贈る場合には銘を記すのが通例なのに、わざわざ「岩切丸」という通称を書いている辺りも奇妙だ。

ちなみに『松田家の歴史』というサイトで笠原政晴の墓についての記述がある(44ページ)。

「笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、1626年60才で病没したと言い伝えられている。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある」

「助之進」という仮名から、紀州家中の例の笠原家が関連しているようにも見える。

その間の係累がはっきりしない上本来関係のない笠原氏だったのを、歴代の誰かが「笠原新六郎こそ我が祖」と言い出して墓を建立したのではないだろうか。

ひとまず、充分に検討を要する伝承であることを記しておく。