2017/04/23(日)困窮する修験者たち

どういう文書か?

年未詳だが、相模の修験者たちが後北条氏の寺社担当的役職の可直斎長純・板部岡融成に宛てて彼等の置かれている厳しい状況を説明している。

  1. 先達は前から伊勢・熊野の参詣案内役をしていたが、10年前から駿河が通行できず仕事がない。このため百姓をしている。
  2. 武蔵先達は古来から16名いて、北方8名は不動院、南方8名は玉滝坊が取りまとめ、毎年聖護院様に上納をしている。相模については、聖護院様が下向した際に「24名それぞれがお国の役に立つように」との仰せで上納は免除されている。
  3. 早雲寺殿の熊野での宝株丸の一件から、熊野導師をさせていただいているので、山伏をお使いになっている。この例にちなんで、他国への御用の時は山伏を用立てるようになった。その頃も移動代金は支給してもらっていた。また山伏も活躍して、飛脚としてよく働いた。先達衆だけに仰せになってもらえるならば、頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう。

文書の題に「修験中退転之様体御尋ニ付申上候事=修験者たちが職にいられず散ってしまった様子についてお尋ねになったので申し上げます」とあることから、この時修験者らは伊勢・熊野参詣の案内者としても飛脚としても機能せず、それを後北条氏に質問されたのだろう。

何故後北条氏がそれを気にしたのかというのは、最後の項目で「頭巾袈裟従上申咎之事、無之候=頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう」に集約されている。修験者らは機能していないにも関わらず山伏の格好で百姓の生活をし、それを咎められたのだろう。そこで後北条氏が質問してきたので「修験者として生活できるならこういう罰も受けなくて済むのです」と回答している。

面白いのは、修験者たちが自らの困窮をさりげなく後北条氏のせいにしたともとれる書き方をしている点。「あなた方が戦争して参詣客がいなくなった」とか「早雲寺殿の頃から協力したのに飛脚を頼まなくなった」とか。

恐らく後北条氏としては「修験者として食っていけないなら山伏の格好はやめて」と言いたかったのだろうけど、修験者はそういう発想を持っていない。「山伏の身なりで百姓するのが変だというなら、山伏の仕事をさせろ」という主張である。中世っぽい。

いつの文書なのか?

では彼等が困窮したのはいつのことだったのだろう。この文書は年月日が一切ない。ただ関連する文書はあって、箱根権現別当で、東寺出身、山伏も監督していた融山が長純に宛てたもので、東寺門徒は「従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事=古い昔から陰陽道・七五三祓いなどは執行しない」として、それらは山伏の収益であることを認めている。これを逆に言えば、それだけ修験者たちの権利が侵害されていた日常があったのだともいえる。

※家臣団辞典では、箱根権現別当融山との交信から、長純が東寺金剛王院の僧であったと比定している。

北条氏綱後室の兄である聖護院道増は1552(天文21)年に関東へ来たという記録がある(これは4月10日の鶴岡八幡大鳥居落成に立ち会うためだったかも知れない)。山伏たちがいう免除はこの際に行なわれた可能性がある。とするなら天文21年より後であるのは確実だ。

次に「拾年已前者、駿府不通故」という点について。

「拾年已前」を「天文 or 永禄10年以前」とするか、「今から10年前は」とするかで大きく解釈が変わるが、文面からは判断が難しい

* 今川氏と対立していた頃(天文6~23の約18年間)  
* 武田氏と対立していた頃(永禄12~元亀3の約4年間)
* 可直斎長純の活動期間(弘治3~永禄13/元亀元)  
* 板部岡融成の活動期間(永禄11~)  
* ※融山は永禄6年没  

上記のうち活動期間から推測すると、「退転」文書が作られたのは永禄11~元亀頃、融山から長純への山伏利権保護文書が作られたのはそれ以前という比定が妥当だと思われる。

更に突っ込んで考えると、永禄12年以降は再び不通になっていて、ここぞとばかりに書き立てると思われるから、永禄11年と絞れる。

では「拾年已前」をどう解釈するか。天文年間は置いておくとして「永禄10年以前」なら「去年」と書くはずだ。中10年と考えて弘治3年と考えてみても3年ずれる。

であれば、3年遡って1565(永禄8)年と比定するのが妥当かも知れない。長老融山死去から2年後ということで、対応が長純と融成に任されたという可能性がある。

原文

修験中退転之様体御尋ニ付申上候事
一、相州諸先達中従前々他国江御用ニ走廻リ候意趣者、従古来伊勢・熊野参詣之者令引導処、拾年已前者、駿府不通故、一切先達打捨、只今百姓ヲ致、身命続申候、在々所々之御地頭、如斯之段御存知候、御不審ニ候ハゝ、御尋可被成候
武州先達従古来拾六人ニ御座候、然ル処、武州北方八人、古川会場不動院ト申山伏年行事相持、聖護院様江年々上分進納申候、南方八人年行事玉滝坊相持、是又毎年上分進納申候、然者御国役之事者、相州廿四人之先達斗走廻リ候、先年聖護院様御下向之砌、相州山伏分之事、可相立之由被仰付候、彼者御国役与走廻リ候由申上候ニ付、京都上分之事進納不申候
一、早雲寺殿於熊野山宝株丸船之義御座候時分、熊野導師案内仕候故、山伏ニ被遣候、依此例ニ他国江御用ニ至時者、山伏ニ被 仰付候、其時分も路銭之儀、従 御上様被下、又山伏も走廻リ候、飛脚■能懸御目候、此上先達衆斗被仰付候者、頭巾袈裟従上申咎之事、無之候、此旨御披露ニ可預候、以上、
相州衆分中
  橋本、権現堂・二階堂
  杉田、泉蔵院
  本牧、桜井坊・慶蔵院
  藤沢、毘沙門道
  室田、住光坊
  豊田、定円坊
  沼目、城光坊
  浦郷、慶蔵坊
  堀、城入院
  同所、城光院
  中村、城明院
  同、能引寺
  国府、円蔵坊
  関本、法惣院
  中野、蔵滝坊
  松田、大蔵院
  飯田、仙滝坊
  片瀬、玉蔵院
  一之宮、大福坊
  たゝ■、泉蔵坊
  一之宮、幸蔵坊
  ほとかや、海蔵坊
御申上候
江雪・長純
(注記:此両人ハ其時之寺社奉行与承リ候)
埼玉県史料叢書12_付編278「相模国先達衆言上状写」(城明院文書)


御札令披見候、然者中武蔵真言宗従五ヶ所申上候筋目承り候、惣而東寺門徒之儀、従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事、本意候、若於田舎、為渡世、自然此所作仕候輩者、山臥方へ其役相定候事、武上共無紛候、定 御門跡御証文可為分明候、此旨御披露憑入候、恐惶謹言、
七月廿一日/箱根別当融山判/長純廻報
戦国遺文後北条氏編4559「箱根別当融山書状写」(古文書写)