2022/08/23(火)北条氏規妻の実体
氏規妻は綱成の娘か
通説で「高源院殿」とされていた北条氏規妻の戒名について、過去帳を検討した結果別人のものである可能性が非常に高くなった。そこで、改めて彼女の実体を推測してみる。
寛政譜では北条綱成の娘となっている。これは昨今の通説でも受け入れられており、氏規文書に水軍・三浦半島に言及したものがが見られることから、これらを統括している綱成の保護下にあったと想定、氏規が綱成娘を娶ったことを肯んじている。
まず関係史料から挙げてみよう。
仁科郷の地頭
「北条美濃守御前方」は、伊豆国仁科郷の地頭(領主)として登場する。1589(天正17)年11月の記録で後北条最末期のものではあるが、美濃守氏規の妻が仁科の地頭であったことが判る。
- 戦国遺文後北条氏編4969「佐波神社棟札銘」(西伊豆町仁科佐波神社所蔵)
奉修理、三島大明神御宝殿之事。右大旦那本命辰之天長地久子孫繁昌諸願成就、本願須田図書助盛吉(花押)
当地頭北条美濃守御前方、大工瀬納清左衛門・鍛冶鈴木七郎左衛門、于時天正拾七己丑年霜月吉日
伊豆の仁科郷というと、1561(永禄4)年に北条氏康が「父氏綱は禁裏のご修理の費用に仁科郷を進上した」と書いているように、それなりの収益が見込まれる土地であった。所領役帳での仁科郷は100貫文しか計上されていないものの、実態としては仁科郷を中心にした村落群を「仁科」と呼んでいたようで、1583(天正11)年には清水康英が「仁科十二郷御百姓中」に宛て、三島宮の八朔行事への出資を命じている。
仁科北方の地頭、山本家次
仁科の歴史を遡ると、仁科の北にある田子漁港の近くにある神社の棟札が地頭の存在を記している。
-戦国遺文後北条氏編4657「天満宮棟札銘」(多胡神社所蔵)1560(永禄3)年5月2日
(表)大日本国伊豆州仁科庄大多古郷、地頭山本信州守家■。奉新造栄天満大自在天神、大工新衛門宗■・代官松井与三左衛門。于時永禄三年庚申五月初二日、郷内子々孫■■栄也、及至法界平等利益乎(裏)仁科鍛冶太郎左衛門尉広重
謹、敬白
帯一筋、道祐・麻五十目、九郎左衛門尉・■■■■■■
ここにあるように、1560(永禄3)年の仁科庄内大多古郷地頭は山本家次。彼は三浦郡の出自で水軍を率いており、最初は為昌配下にあり、次いで氏規指揮下に入った人物。前年完成した所領役帳で家次は御家中衆に分類され、その知行とされているのは伊豆国内の田子・一色・梨本とある。どうやら仁科十二郷北部とその東方に所領があったようだ。
所領役帳では渡辺弥八郎が領主
渡辺弥八郎は所領役帳で小田原衆として記載され、知行地として仁科郷の100貫文が記載されている(但し「今者公方領」との注記があり、永禄2年時点では後北条直轄領だった模様)。山本家次領が北方を占めていたことから、弥八郎が領した「仁科」は中心部の限定的な領域だったと思われる。
その弥八郎と同族だと思われる渡辺孫八郎に対して、後北条氏は虎朱印状を発給している。仁科郷からの陣夫1名を北条氏秀(孫二郎)支給に変更するため、代替として富岡・大岡から後藤彦三郎が使っていた陣夫1名を孫八郎に派遣するとした。氏秀は綱成の弟なので、ここでも玉縄家と仁科の繋がりが窺われる。
- 小田原市史資料編小田原北条0561「北条家虎朱印状」(渡辺文書)1563(永禄6)年
前ゝ仁科郷より召仕候陣夫壱疋、自当年孫二郎前引ニ被遣候、此替久良岐郡富岡・大岡郷より、前ゝ後藤彦三郎召仕候陣夫壱疋、現夫を以、為仁科之夫替被下由、被仰出候、仍如件、
癸亥四月廿六日/日付に(虎朱印)南条四郎左衛門奉之/渡辺孫八郎殿
番銭の滞納事件
永禄8年、仁科郷が納税を怠っていた事件が勃発し、そのことで周辺にいた人々の名前が明らかになる。
- 小田原市史資料編小田原北条0628「北条家虎朱印状」(三島明神文書)1565(永禄8)年
子歳番銭未進事。拾三貫六百四十文、仁科
右、先年以配苻、無未進年ゝ可致皆済段、堅被仰付処、于今無沙汰仕儀、一段曲事被思食候、当月切而可済申、若当月を至于踏越者、以牛馬可引取、百姓共をハ五人も三人も可搦取、并名主草丈をも押立、小田原へ為引可申、此儀聊も無沙汰至于申付者、奉行人可遂成敗、為其改而一人被指加者也
一、酉戌亥子四年間、此番銭済候様体、此度委可申披事
一、代物之ほとらい、御本被遣事
以上、
乙丑七月八日/日付に(虎朱印)/仁科船持中・奉行中村宗兵衛・同村田新左衛門尉・田蔵地代源波・浮奉行中村又右衛門・山口左馬助
永禄7年の番銭13.64貫文を仁科郷が滞納した件が問題になったのが判る。7月4日の布告で「もし月を跨いで滞納するなら牛馬を差し押さえ百姓を何人でも捕縛して、名主草丈(方丈?)でも小田原へ連行する」と強硬に命じている。納税者の船持中だけでなく、奉行3名に加えて臨時奉行と思われる2名にも納税を命じていて、怠るなら奉行でも成敗するとしている。この滞納は4年も続いていたようで、過去に遡及しての完済も同時に求めていたから、まあそれは厳しく取り立てるだろう。
- 小田原市史資料編小田原北条0629「北条家虎朱印状写」(三島明神文書)1565(永禄8)年
仁科郷子歳番銭未進、曲事候、当月ニ切而皆済可申、若至于踏越当月者、百姓をは搦捕、其上地頭ニ可被懸過失候、為其兼日以御印判被仰出者也、仍如件、
乙丑七月九日/日付に(虎朱印)/左衛門大夫殿
過激な徴税命令を出した翌日、氏政は一門の綱成に徴発を依頼している。月末を過ぎても納付がなければ、百姓を捕縛し、さらに地頭に過失の責務を負わせるとしている。地頭がいたということは、この段階で仁科は直轄領ではなくなっていた。そして地頭が綱成だったのだろう。地頭が綱成とはいえ番銭は後北条当主へ納める仕組みで、その徴税代官が先行したものの難航して綱成にも連帯責任を警告したものと思われる。
この地頭職を、綱成は娘に譲った可能性が高い。
まとめ
上記より、氏規妻と綱成は、伊豆との関係性が見られることが判った。間を繋ぐ氏規は更に伊豆と関係が深いことから、この3人が密接な関係にあったと見てよいと思われる。寛政譜にある「氏規の妻が綱成の娘」という記述と従来の通説を、更に補強する結果となった。
綱成の生年は1515(永正12)年と伝わるので、1545(天文14)年生まれとされる氏規とは30歳違いであり、年齢的に不自然さはない。綱成長男の氏繁が1536(天文5)年生まれなので、その妹とすると氏規と同年齢か少し年上だった可能性はある。
北条氏勝はなぜ小田原開城後に躍進したのか
これは状況証拠であるのだが、氏規の妻が綱成娘とすれば、玉縄北条家が本家滅亡後に徳川家康に特別に取り立てられた理由が判る。軒並み落魄した一門の中で、氏規と氏勝は別格の扱いを受けている(天正19年閏1月に氏勝は自領の岩富で検地を行なっている)。
元々羽柴・徳川と関係を持ち最後まで軍事的に抵抗しえた氏規が高評価を受けて栄達するのは判り易いのだが、さほどの活躍を見せていない氏勝が、徳川家中で一万石を初動で得る理由が判らなかった。これを、氏規夫妻による嘆願が背景にあったとすれば納得がいく。
氏規夫妻と氏勝の関係が窺える史料がある。北条氏勝・直重が連名で伊豆の長楽寺に宛てて判物を発行しているもので、伊豆に関して二人が言及しているのはこの文書だけ。これは、氏規夫妻が政務を開始した甥っこ兄弟に指南をしていたと考えられる。
- 戦国遺文後北条氏編2535「北条氏勝・直重連署判物」(下田長楽寺文書)
大浦薬師免田之事、右如前ゝ聊不可有相違、并近辺林之竹木等、仮初にも横合非分不可有之者也、仍状如件、
天正十一年癸未五月十二日/左衛門大夫氏勝(花押)・新八郎直重(花押)/長楽寺参御同宿中
そもそも玉縄家は、綱成の後の氏繁が1578(天正6)年に死去してから外交・軍事ともに大きな働きはしなくなっていた。氏規の妻がこのことを気にかけていた可能性は高い(本格的な検討は必要だが、氏繁妻のものと比定されている朱印状3通(天正12~14年)も、氏規妻が実家のために発行したのかもしれない)。
1590(天正18)年の小田原合戦を見ても、氏勝は4月21日に無血降伏して玉縄を明け渡しており、扱いとしては鉢形を開城した氏邦と差異はない。
氏勝の降伏表現
豊臣秀吉文書集3037「羽柴秀吉朱印状」(島津文書・東大史写真)4月23日
(抜粋)「来月朔日鎌倉為見物可被成御出候、彼近所ニ有之玉縄城此方へ相渡、物主北条左衛門大夫走入、命之儀御侘言申候間、相助家康へ被遣候、即右地へ相移、関東之城々悉請取、此方之人数可被入置候」
神奈川県史資料編3下9773「川島重続書状」(伊達文書)5月2日
(抜粋)「下野国ノ侍皆川山城守走出申候、人数百計召連候、其外北条左衛門大夫命を被助候様ニと申上、無理ニ罷出候、左衛門大夫ハ玉縄と申城ニ籠申候つる」
- 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月
(抜粋)「随而廿一日相州玉縄城明渡、城主北条左衛門剃髪成染衣形出仕申候、其後伊豆国下田城清水上野楯籠候、是茂剃首助命、城指上申候」
氏邦の降伏表現
豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)6月28日
(抜粋)「武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候」
- 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月
(抜粋)「其後同国鉢形に氏政舎弟安房守楯籠候処、北国人数并浅弾人数可押寄支度候処、急懇望申、助身命候、前代未聞之比興者之由、敵味方申候」
上記を合わせて考えると、氏規妻が甥の氏勝を引き立てたという理由が成り立たないにしても、氏勝の不自然な躍進は何らかの考察を加えるべきだろう。
2022/08/20(土)北条家過去帳の「高源院」は誰か
戒名比定の根拠
北条氏規妻の戒名が通説で「高源院玉誉妙顔大禅定尼」と比定されているのは、北条家過去帳の記載が根拠(下記リスト「平塚_北条家過去帳」タブ内、項番41)。
日牌 高源院玉誉妙顔大禅定尼 北条久太郎殿為曾祖母 寛永五戊辰六月十四日
ただ、これには疑問がある
- 院号の「高源院」は山木大方と同一。後北条家中での重複は他に例がない。
- 正確には「久太郎殿曾祖母」の戒名であり、氏規妻と限定できない。
- 「院」のあとに「殿」がない「大禅定」は、他に例がなく不自然。
3については恐らく、伝聞に基づいて不確かな戒名を記したか、「高源院玉誉妙顔禅定尼」もしくは「高源院玉誉妙顔大姉」の位階を強引に「大禅定尼」と変えたかではないかと推測している。父方・父方の曾祖母である氏規妻の戒名にしては、どうも他人事のような書き方だといえる。
「久太郎殿」は誰か?
この過去帳で「高源院」は「北条久太郎殿為曾祖母」となっている。北条久太郎殿が曾祖母のために位牌を立てたということだが、北条久太郎は二人存在する。
- 氏勝の養子で玉縄北条家当主だった久太郎氏重(1595~1658年)
- 氏規の孫で狭山北条家当主だった久太郎氏宗(1619~1685年)
過去帳に見られる「久太郎」記載の分布は1628(寛永5)年~1672(寛文12)年となっており、「高源院」記載が1628(寛永5)年6月14日でその最初に位置する。
氏重は1658年に亡くなっているから、久太郎は氏宗と見てよいだろう。
※北条家過去帳では「高源院」記述の後に「北条民部少輔氏重」(項番42)とあってなかなかにややこしいが、官途と命日(寛永十三年七月八日御命日)から見てこの氏重は氏盛の弟の方だろう。
北条氏宗の曾祖母は誰か?
簡単な図にしてみた。
氏宗曾祖母のうち、素性が判るのは北条氏規の妻・船越景直の妻・佐久間盛次の妻。それぞれの可能性を検討してみる。
A)氏規の妻
彼女が「高源院」であった場合、綱成の娘か氏規の妻、もしくは氏盛の母と書くはず。他の記載もすべて娘・妻・母の関係性で記述されている(「祖父」は1例。「祖母」はない)。北条家過去帳は江戸北条と狭山北条の両家があれこれ手を加えているが、狭山北条だけでなく、玉縄北条の嫡流を自認する江戸北条家にとっても、氏規妻の存在は重要である筈だから、異例の「曾祖母」とだけ書くとは思えない。また「院殿」とすべきところで「殿」とする誤記をするとも思えない。
また、後北条家中で位が高かった山木大方(氏綱娘)の法名が「高源院」。このことは彼女の生前から文書で関係性があったことが確認できる。この名前をわざわざ綱成の娘につけるだろうかという強い疑問もある。
B)船越景直の妻
寛政譜によると池田輝政被官の野田三右衛門の娘だという。父の祖母だから関係性として低くはない。ただ、彼女だった場合、Aと同じ理由で、氏盛の妻・氏信の母と書くのが普通だろう。やはり違和感がある。
C)佐久間盛次の妻
寛政譜によると柴田勝家の姉だという。勝家は1522(大永2)年生まれなので、その姉となると明らかに世代が合わない。柴田家の誰か他の女性が盛次の妻だったとしても、あまりに情報が少なく判断が難しい。「氏信祖母」でもあるからそちらの記載が適切かとも見られる一方で、母方の系譜なので発起人である氏宗からみた係累を記述した可能性はある。
D)その他の女性
さらに情報がないのは佐久間安政の妻で、勧修寺晴豊の娘(土御門氏)という情報がネット上にあったものの、根拠に乏しい。安政は一時期小田原にいたと寛政譜にあるため、小田原ゆかりの女性である可能性もある。何れにせよ判断するだけの材料がない。
氏宗にしか関わりがないために父母・祖父母を飛ばして「曾祖母」にしたとすると、氏宗妻の曾祖母(氏宗から見て義理の曾祖母)であった可能性の方も捨てがたい。ところが、図にあるように妻の曾祖母を弔った可能性もあるかと調べてみたところ、氏宗の岳父である大久保幸信の妻がいきなり不明で、大久保と石川しか追えなかった。このどちらも、大久保忠世の妻とか、石川家成の妻とか書いた方が江戸期は箔がつくだろうから、言葉少なく「曾祖母」とだけ書いたのは不自然である。
以上を勘案すると、父系のAとBは候補から外れ、Cの可能性がわずかにありつつ、全く不明な人物の方が有意に蓋然性が高いといえる。つまり、氏規の妻が高源院である可能性は候補者の中で最も低いことになる。
2022/03/23(水)新出の北条氏照・氏規連署書状
Twitterのフォロワーさんからご教示いただき、『川崎市文化財調査集録55』にて北条氏照・氏規の連署状が新しく発見されたことを知った。
この文書についてあれこれ考察してみようと思う。
新出文書
北条氏照・氏規、韮山の某に駿東の戦況を報告
原文
不寄存候処、此度就致出陣、御使特御折紙、披閲本望之至存候、昨日者、興国寺へ罷移、万端申付候、陣屋等無之間、打返黄瀬川端陣取申候、明日者、吉原辺迄陣寄、一両日之内、富士筋地形見聞、彼口之様子可申達覚語候、委曲大草方口上頼入候、恐々謹言、
七月十二日/氏照(花押)・氏規(花押)/宛所欠(上書:韮山江御報 北条源三・■■■)川崎市文化財調査集録55「北条氏照・氏規連署書状」(王禅寺文書)1569(永禄12)年比定
解釈
思いがけず、今回の出陣について御使者、特にお手紙をいただき拝見しました。本望の至りに思います。昨日は興国寺へ移動し、万端申し付けました。陣屋がなかったので引き返し、黄瀬川岸に陣取りました。明日は、吉原辺りに陣を寄せ一両日のうちには富士方面の地形を調査して、あの口の様子を報告する覚悟です。詳しくは大草方へ口上を頼みました。
疑問点
文意から氏規が連署する必然性はない
「富士筋地形見聞」とあるが、氏規は駿府育ちだし吉原までの進軍は前年12月に行なっている。武蔵・下総での合戦しか経験がない氏照単独なら判るが、むしろ不審に見える。元々は氏照単署だった書状に氏規が巻き込まれた感じがする。
戦国期の連署の実態については先行記事連署の順番は序列を表すかをご参照のこと。
奥書きとしての宛所がなく、上書き宛所が小路名
書状の奥に宛所を書かずに上書きで宛名を書く例は少ない。更に、写し文書だと宛所が削除された可能性があるので、これを除外すると179例ある。
上記例をざっと見ると、女性や僧侶に宛てたものやごく近い人間に内々の情報として送ったもの、急いで報じようとしたものが多い。敬称についても丁寧なものもあり、それなりに格上相手にも送られたようだ。
この中で宛所が小路名(地名)になっているものは1例しかない(戦国遺文後北条氏編3687)。これは伊豆山中城に籠城中の松田康長が箱根権現別当に宛てたもので、上書きに「箱根へ尊報御同宿中 自山中松兵太」とある。とはいえ、他の寺社宛てではことごとく寺社名を宛所にしているのでこれは例外中の例外と見てよいだろう。
「韮山」に敬称としてつけられた「江御報」は他に4例があるが、何れも奥書の宛所に用いている(北条氏照2・千本芳隆・真壁氏幹各1)。氏照文書として違和感がないものの、なぜ奥書の宛所が書かれなかったのかは違和感がある。
北条氏政弟の連署は珍しく、他には天正10年の氏照・氏邦連署が2通あるのみ
北条氏政の弟達は連署を出すことがほとんどない。氏照・氏邦が連署を出したのは甲信遠征時であり、虎朱印状の奉者としても両人が名を連ねる例外案件。どういった状況で出されたものかを慎重に見極める必要がある。
文書を取り巻く状況
永禄11年12月12日、駿河国に侵攻した甲斐国の武田晴信に対して、北条氏政は素早く今川氏真支援に動き、駿東方面の各拠点を押さえた(薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺)。氏真は駿府を維持できずに遠江国掛川へ逃れるも、晴信と示し合わせて三河国から遠江国に侵入してきた徳川家康の包囲を受ける。そこで氏政は伊豆国から海路援軍を送り、掛川の氏真に合流させた。
一方で氏政の父氏康は晴信との交戦に伴って、これまで対立してきた越後国の上杉輝虎との同盟を模索、氏政の弟である氏邦から由良成繁を介して交渉を行なう。同時期に、下総国関宿で上杉方と交戦中だった氏照も、北条高広を介して輝虎に独自接触し同盟交渉を始めた。
翌年閏5月になって事態は急転回し、掛川で氏真を囲んでいた家康が氏政と和睦。氏真退去後の掛川を接収することで合意し、氏真らは後北条被官達とともに駿河へ帰還する。この外交転換で晴信は東の氏政、西の家康から挟撃される形となり駿河国から撤退することとなった。
その後、なおも甲斐国から南下する晴信に備えるため、氏政は薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺のほかに、御厨で矢倉沢往還を押さえる深沢城を構築。対する晴信は、上野国や秩父からの侵入を小刻みに行なって後北条方の兵力を分散させつつ、富士大宮の攻略作戦を進めていく。
こうした中で5月下旬から富士大宮は武田方に包囲されていた。閏5月を挟んで6月28日・29日に氏真が富士大宮籠城衆の奮戦を称えているものの、同時進行で籠城衆は武田方と開城交渉を行なっており7月3日には城主らが退去して開城したようだ。
氏照の参戦状況
この時の後北条方は、蒲原の北条氏信、興国寺の垪和氏続、深沢の北条綱成は継続して在城したものの、薩埵近辺で奮戦していた北条氏邦は本領の武蔵国鉢形に戻っている。これは、武蔵国への侵攻を武田方が試みている状況を受けてのもの。代わって、越相同盟交渉の進展で武装解除された下総国戦線から北条氏照が引き抜かれた(6月9日に相模国小田原で後北条一門が集まって輝虎への起請文を作成していることから、氏照はそのまま留まっていたと見られる)。
ただし氏照の動きは緩慢だった。6月28日に氏照は野田景範に西方戦線への移動を伝えているが、7月4日になっても小田原にいて「富士大宮への支援で氏政が出馬して私の部隊も同行するようだ」と書きつつ、栗橋留守部隊の移動指示をしている。こうした氏照の不安を解消するべく、これに先立つ7月1日に氏政・綱成が相次いで景範に留守居を指示している。氏政は何としてでも氏照を駿河戦線に投入したかったのだろう。
氏政の思惑を横目に、氏照は7月5日になっても武蔵国御獄の番衆の労をねぎらったりして視線が東に引き寄せられたまま。この2日前に富士大宮は開城しているが、富士信忠は後北条方に留まり、恐らく吉原近辺で失地回復を目指していた頃だ(信忠は氏真から暇状をもらう元亀2年10月26日までは後北条方に留まっている。また、7月4日に蒲原城番の氏信が吉原の各拠点に対して督戦したり禁制を出したりしている)。
この時点で富士大宮を奪還できれば駿東戦線は維持継続されていた筈で、ここが重要な転換点であることは後北条方も認識していた。だからこその氏照投入だった訳だが、7月12日段階で氏照は黄瀬川に引き返していた。17日に氏照は輝虎に書状を発しているが、内容は取次担当者の確認のみで駿河戦線には言及していない。既に戦線から離れていたのだろう。
永禄11年12月の際は、12日に晴信が駿河国に侵入すると翌日には氏政が三島へ着陣、15日に氏規が吉原で禁制を発している。これと比べると、吉原にさえ進まなかった氏照は進軍に消極的だったといえる。
宛所は何者か
使者として「大草」を使えて、氏照に「氏規連署が必要」と思わせる人物。そしてその人物は韮山に滞在していたが、それを氏照が想定できていなかった。手がかりとして確実なのはこの程度だろう。
そこで候補者を挙げつつ、それぞれ条件に合致するかを記してみる。
氏真
合致
- 被官に大草次郎左衛門尉が存在
- 上書に「北条源三」とある点は他家宛てを想起させる
- 氏照は面識のある氏規を連署に加える配慮を見せた
- 不合致
- 他家太守を敬ったにしては奥書の宛所がない
- 他国太守に宛所を欠いた書状は見られない
- 韮山は暫定滞留なので「御陣所」をつける可能性が高いがそれがない
- この時点では氏真は沼津にいた(別記事参照今川氏真帰国後の居所)
宗哲
合致
- 大草康盛(左近・丹後守)がのちに奉者になる
- 息子の氏信が蒲原に在城しており連携しやすい
- 身内なので奥書の宛所を略した可能性がある
- 北条氏康が宗哲に宛てた書状は宛所欠で上書きに「幻庵参 太清軒」(戦国遺文後北条氏編1535)とあり形式が近い
- 不合致
- この当時の大草康盛は虎朱印状奉者で繋がりが弱い
- 宗哲宛ての文書5通で小路名のものはなく、全て「幻庵」を含む。地名を含んだ場合も「幻庵久のとのまいる」(戦国遺文今川氏編2367)となる
- 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
- 氏規を連署にする理由が想定できない
山木大方
合致
- 韮山に知行を持っている
- 身内の女性宛てなので奥書の宛所を略した可能性がある
- 不合致
- 使者「大草」との繋がりが不明
- 女性宛ての文書でない
- 香山寺住持など他者を介したとしても当該文書内に「披露」の文言がない
氏政
合致
- 7月4日の氏照書状では氏政が三島に出馬するとあり、伊豆に在国した可能性がある
- 虎朱印奉者として大草康盛を帯同できた
- 兄の叱責を恐れ、作戦進行の遅れを弁解するため氏規の連署を入れた
不合致
- 相模円能口合戦の褒賞、知行宛行、課役徴発といった文書発行を見ると小田原在城の可能性が高いように見える
- 氏照が「思いがけず連絡をもらった」と驚く要素がない
- 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
- 氏政は駿東の戦況と地形に詳しく氏規を連署にしても言い訳にならない
- 備考
- 弟から氏政への書札礼の例がないため比較不能
- 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
- 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
- 吉良氏朝が氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)
氏康
合致
- 大草康盛は永禄9年6月10日に氏康朱印状奉者になっており帯同に問題はない
- 7月2日、伊豆国桑原郷に箱根竹の供出を命じている(伊豆への朱印状発給は異例)
- 開戦初頭から小田原にいたため最新の戦況・地形に疎く氏規連署が言い訳になる
- 氏康の韮山滞在を氏照が把握できておらず驚いた可能性が高い
- 氏康は7月3日~26日に文書が見られず外出していた可能性がある
不合致
- 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
- 備考
- 息子から氏康への書札礼の例がないため比較不能
- 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
- 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
- 吉良氏朝が隠居後の氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)
まとめ
北条氏照・氏規の連署状は、駿河国富士大宮城の救援に失敗した過程を表している。富士信忠が本拠を失陥することは、駿河を巡る北条氏政と武田晴信との紛争で画期となる出来事であり、東の戦線から氏照を入れることで乗り切ろうと氏政は考えていた。しかし氏照の動きは緩慢で手前の吉原に至ることなく黄瀬川に引き返している。
富士大宮城に関して氏照は他の書状で「悪地誠ニ雖屋敷同前之地ニ候」(戦国遺文後北条氏編1277)と酷評しており、状況打開の意気込みは感じられない。ただ、この連署状では強気な発言はなく「興国寺に陣所がなく引き返した」と弁明のような趣旨が感じられるし、氏規を連署に引き込んでいる点から「自分だけのせいではない」という主張も想定できる。
この点から見て、氏照が強く出られず氏規が言い訳に使える相手が宛所、すなわち氏康である確率が高いだろうと考えている。
もう一歩踏み込んだ考察
ここから先は「宛所が氏康」という前提で考えてみる。仮定を重ねているので参考用の覚書となる。
この連署状を送ったあとの氏照は、7月17日付で輝虎に書状を送っている。
北条氏照、上杉輝虎に取次役の担当者を確認する
原文
態預芳札候、御懇切之段、誠以本望至極存候、仍越相御一味御取次之事、弟候氏邦并氏照可走廻段、去春氏康被申述候之哉、於拙者存其旨候、然ニ此度就両使御越、氏邦一人走廻儀、御不審之由候、由良手筋故、如此候キ、於氏照も内外共、従最前之御首尾、聊不存無沙汰馳走申候、定而広泰寺・進藤方可被申達候、委細山吉方頼入之由、可得御意候、恐々謹言、
七月十七日/北条源三氏照(花押)/越府江御報戦国遺文後北条氏編1287「北条氏照書状」(上杉文書)1569(永禄12)年比定
解釈
わざわざお手紙をいただき、ご懇切なこと本当に本望の限りに存じます。越相同盟の取次役のこと、弟の氏邦と氏照が担当すると、去る春に氏康が申しましたでしょうか。拙者においてはそのように考えていました。しかるに今回、両方の使者が伺うことについて、氏邦一人が担当しているのがご不審とのこと。由良成繁経由なのでこのようになりました。氏照においても内外ともに最初から最後まで、少しの無沙汰もせずに奔走します。恐らく広泰寺・進藤方より申されるでしょう。詳しくは山吉方に頼みました。御意を得られますように。
この「取次役が氏邦・氏照で不審」と輝虎から言われた案件は、3月3日に氏康が回答済み。その時氏康は「氏邦と氏照の2人を使っても、どちらか一人でも構いません。もし氏照を継続させるとしても由良成繁経由に統合します」と輝虎に伝えている。その時の書状は下記になる。
北条氏康、上杉輝虎被官の河田伯耆守・上野中務少輔に取次担当者について確認する
原文
一、越相取扱之儀、旧冬以来源三・新太郎如何様ニも与存詰、様ゝ致其稼候、就中新太郎ニ者愚老申付、由信取扱ニ付而、無相違相調、源三事も、涯分走廻処、難指置間、以天用院進誓句砌、源三・新太郎扱一ニ致、以両判添状申付候、然ニ自陣中三日令遅ゝ、二月十三日来着候、天用院をハ十日ニ当地を相立候、然間、其砌両判添状をしおかれ、愚老預置、此度進候。一、向後之義者、両人共可走廻歟、又不及其儀、一人可走廻歟、菟も角も輝虎可為御作意次第候、愚老心底者、両人共ニ走廻候者、弥可満足候、菟角可然様、各頼入候。一、源三事も由信方頼入、以同筋可申入候、猶爰元不可有紛候、恐ゝ謹言、
三月三日/氏康/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿小田原市史資料編小田原北条0791「北条氏康書状写」(歴代古案三)1569(永禄12)年比定
解釈
一、上杉と後北条との取次役のこと。旧冬以来氏照・氏邦がどのようにも対応しようと思い、あれこれ励んでいました。とりわけ氏邦には愚老が指示して由良成繁の取り扱いとして相違なく準備させました。氏照も随分と活躍していましたが配置が難しかったので、天用院が起請文を進呈した際に、氏照・氏邦の扱いを統合すると、双方が花押を据えた添状を用意させました。しかるに陣中より3日も遅れて、2月13日に到着。天用院は10日にここを発っていました。その添状を愚老が預かっておりましたので、この度お送りします。一、今後のことは、両人ともに起用しましょうか。またはそれには及ばないなら一人だけにしましょうか。とにもかくにも輝虎のお考え次第です。愚老の心底では両人ともに使ってもらえれば、満足です。ともかくしかるべきように皆さんお願いします。一、氏照となっても由良成繁を頼みますので、経路は同じになるでしょう。更にこちらから混乱させることはないでしょう。
このように氏康は取次役をどうするかは輝虎に一任しているのだが、その案件を半年を経て氏照がわざわざ蒸し返したのがなぜか、今まで判らずにいた。恐らくは輝虎が明確な返事をしなかったのだろうかと。
しかし、富士大宮失陥への対応失敗を受けて氏康の不興をかった氏照が越後への取次役を確認することで、外交上で重要な地位を占めているのだと、輝虎を介して氏康に伝えたかったと考えれば腑に落ちる。
そして連署状で「北条源三」と上書きに書いたのは、氏照が勝手に北条に改姓したことに繋がるように見える。元々氏照は「大石源三」と自称しているが、晴信の駿河乱入で独自に輝虎と同盟交渉を始めた際に「平氏照」「北条源三氏照」と自署していた(大石氏は源氏で、それは氏照仮名の「源三」にも表れている)。
ところが、この当時他家の本文内では一貫して「大石源三」と呼ばれている(上杉家中ですら)。氏康にしても氏照・氏邦を同列に扱っており、藤田を名乗り続ける氏邦と、北条に復姓したはずの氏照を同列に扱っていた。また、氏康・氏政と氏照で連絡が滞っていたことは下総国山王砦破却を巡る経緯で確認できる。上記から、氏照改姓は氏康・氏政の承認を経ず、関東諸家・武田家には周知されなかったのだろうと考えている。
そしてこの独自の改姓は、6月9日に後北条一門が小田原に勢揃いして血判起請文を作成した際に氏康・氏政に知られてしまったのだろう。この時改姓を既成事実として認めた氏政とは違い、氏康は認めなかったのだろうと思う。というのは、それまでも氏政・氏邦と比して氏照言及数が少なかった氏康文書から、このあと一切氏照が登場しなくなるのである。
こうした確執を念頭に置くと、韮山から黄瀬川という短距離、かつ身内への書状にわざわざ大草康盛という懐刀を使者として送り込んだ氏康の厳しい視線と、それに身構えた返書をした氏照の鬱屈が読み取れる。
氏康・氏政の受給文書はほぼ残されていないのに、これだけが伝来したというのも、韮山でこの書状を読んだ氏康が捨てるように放置し、それを拾った者がいたのを示すのかもしれない(本拠に持ち帰って文箱に入れなかったイレギュラーさから例外的に残されたという想定)。