2023/01/05(木)氏政妻付きの被官は存在したか

後北条氏の例を見ていると、男子が養子入りした際には決裁権を持った付き家老とでもいうべき被官がつけられて入部することが判っている。

では女子が後北条氏に嫁入りした際にこのような被官が付けられるのかを検討してみたい。

吉良氏朝妻の例

実例を見るとすれば、北条宗哲の娘が、当主氏康の養女として武蔵吉良の氏朝に嫁ぐ時に、実父の宗哲が与えた覚書(戦北3535)が参考になるだろう。

ここでは、儀式次第については大草康盛、台所の作法については久保某に彼女自身が質問することを前提した条項がある。これらは後北条家で事前確認する部分なので、お付きの被官とは関係がない。

  • 原文

    一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返たう候へく候

  • 解釈

    一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候

  • 原文

    祝言のときの状況は、あちらの世話人のいう通りにするように。大草などに質問したとしても、覚えががないと返答されるだろう。

  • 解釈

    きっと常の三献だろう。であれば、本式の三献ということだろう。ならば、久保によく質問して作法を間違えないようにしなさい。常の三献であれば、別儀はないだろうから、うるさく言わないことだ。

その一方で、水主杢助・比木図書は細かい案件を任せられるとし、その下の扱いになっている大屋・中田の両名についても折に触れて用事を頼むのがよいと告げている。

  • 原文

    一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候一、清水、笠原御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候

  • 解釈

    一、水主杢助・比木図書は、細かいことでも連絡すべきだろう。親しくするように。大屋・中田とも、被官なのだから、目をかけて用事を命じるように。一、清水・笠原がお礼に来たら、大人衆のように扱うように。一、お迎えに来た大人衆へは、次の日に杢助を使いとして呼び、気持ちを上臈から連絡してよいだろう。ただ、どうなのだろうか。高橋郷左衛門に相談するように。お礼をした後で使いを送るのだろうか。郷左衛門の意見に任せるように。

このことだけでなく、吉良家中で後北条氏に最も親しい高橋郷左衛門尉の意見を全面的に仰ぐように別条で伝えている。彼女の身近にいて諮問を受けられるのは郷左衛門尉という認識なのだろう。

ここで名が出た水主杢助・大屋・中田は後北条当主の虎朱印状の奉者として名が挙げられていて、それは宗哲娘が嫁した後も同じである。このことから、彼らは吉良家にはいなかったと見てよいだろう(小田原市史435・719・2114/戦北855・1076・1274・1621・1846・2225)。此木図書については史料になかったので不明だが、水主杢助と同じ立ち位置だろうと思われる。

気安く用事を言いつけるように言われた水主杢助や大屋・中田が、氏朝妻の近辺に常駐していた訳ではなく、小田原で当主に仕えている身であるものの、氏朝妻から連絡があれば対処する存在であったといえる。

以上をまとめると、氏朝妻に付けられた者に有力な被官はおらず、吉良家中の高橋郷左衛門尉に直接相談するか、実家の諸被官(水主杢助・此木図書・大屋某・中田某)に連絡するという状況にあったことになる。

氏政妻を巡る状況

では武田家から後北条家に嫁いだ氏政妻の場合はどうだったか。彼女に関しての史料はほとんど残されていないが、永禄2年の「武田家朱印状」(戦武655)で「就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也、仍如件。奏者、跡部次郎右衛門尉。天文廿四年三月二日、向山源五左衛門尉」とある。

ここをどう解釈すべきだろうか。「小田原南殿」は北条氏政に嫁いだ武田晴信娘で間違いないだろう。その奉公のため、向山源五左衛門尉は伝馬課税を免除されている。ここで判るのは、源五左衛門尉が月2頭までの伝馬課税を免除されていることと、その理由が氏政妻への奉仕によるもの、ということである。

先の北条宗哲覚書とを併せて考えると、源五左衛門尉は小田原で南殿に近習したのではなく、一族の向山又七郎と同じく小山田氏同心として氏政妻と甲府との連絡担当者として甲斐国内にいたと見るのが妥当だろう。

一方で、所領役帳に「向山」という人物がいたことから、向山又七郎か源五左衛門尉が氏政妻付きの被官として後北条家中に取り込まれたとする仮説を見かけたことがある。

しかし、役帳の「向山」は他国衆に属しており、小山田弥三郎・小山田弥五郎・飯富左京亮に続いて記載されている。役帳の他国衆というのは、後北条氏がその知行を把握できていない者達で、そのうちで後北条分国内での彼らの知行を書き記している特例の存在。小山田弥三郎は武蔵小山田庄を中心にした知行を持っているため、甲斐郡内に移る前の小山田氏本知行を維持していたものと思われる。しかし、小山田弥五郎は伊豆、飯富左京亮は小田原千津島、向山は小机に知行を持っている。これを合わせて考えてみると、弥五郎の本地を承認する一方で、彼の同心達には後北条直轄領を与えたと思われる。彼らが直轄領を手にできたのは、津久井衆の知行地に「敵半所務」が多数見られることと関係しているように思われる。散財する小山田氏との半所務を整理する中で、本来の知行を手放して区画整理に応じた見返りとして、後北条当主が知行地を与えたものではないだろうか。

それに加えて、氏政妻付きの被官が他国衆として知行を与えられているとすれば、今川家から嫁した氏康妻付きの被官がこの他国衆に見られないのは違和感がある(他国衆には今川系の人物が見当たらない)。

該当するとすれば御家中衆にいる「興津殿」だが、興津氏は花蔵の乱で今川義元と決別した一族がいたようで、この中の一人を縁戚に取り込んだものだろう。

  • 戦国遺文今川氏編0561「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

    其方扶助同者親類等、聊就有疎儀者、堅可加下知、万一於属他之手輩者、手分之事者御房可為計者也、仍如件、
    天文五丙申年十月十七日/義元(花押)/興津彦九郎殿

あなたが扶助する者と親類で少しでも疎意があるならば、堅く下知を加えるだろう。万一にでも他家に属す輩がいるなら、分離内容については御房(出家した先代の興津藤兵衛正信?)の計画通りにするように。

※宛所の彦九郎はこの文書を最後に今川家から姿を消し、正信から衣鉢を継いだ弥四郎が今川分国に留まる。その後、弥七郎は今川滅亡後の1571(元亀2)年に北条氏繁の被官として登場する。

まとめ

北条宗哲覚書には、後北条氏が現役の関東管領であり武蔵吉良は将軍御一家衆であると明言されている。このことから、後北条家と武蔵吉良氏との婚姻は太守間での婚姻に相当するものといえる。細かく見ると、娘(吉良氏朝妻)への忠告にも氏綱妻(養珠院殿)と氏康妻(瑞渓院殿)の行動が言及されており、氏朝妻が太守妻に比せられており、この見解を裏付けられる。そして氏朝妻には有力被官は付けられておらず、吉良家中に単身置かれていた(身分の低い小者はいただろうけれど)。

このことと、従来言われていた向山氏が氏政妻付きだったという仮説に確証がなく成り立たない可能性が高いことを考えると、少なくとも氏政妻に付けられた有力被官はいなかったと思われる。

2022/11/28(月)花木集団 浄土宗と臨済宗

この記事は下記の考察を元に行なっているため、事前のご一読をお薦めする。

北条氏規妻の実体

北条氏時・為昌の出自

花木隠居・花木殿・花之木の実体

相模朝倉氏の概要

玉縄と花木

それぞれの役割分担

新参者の福島為昌に異例の抜擢がされた理由として、その妻である花木隠居(養勝院殿)の資金力がありそうだ。彼女自身が資産家の側面を持っているほか、その実家である伊豆朝倉氏は、相模・伊豆で資産家として活動している。

  • 花木隠居:役帳に買得地だけで名が載っているのは彼女だけ
  • 相模朝倉氏:伝肇寺との土地売買で係争、文官として名が見える
  • 駿河朝倉氏:長津俣の地を浦田又三郎から借金の見返りとして入手

後北条氏としては、この朝倉一族を取り込む意図があり、為昌を氏綱養子に取り立てて北条の名字を与えて一門扱いした。ただ一方で、実名での通字「氏」を許可することはなかった。これは為昌が比較的早く死去した要因もあるものの、遠江福島氏出身で妻も相模朝倉氏で血縁が薄かった異分子だったのが大きいだろう。息子の綱成が氏綱娘を娶ってようやく氏綱の偏諱を受け、孫の康成が氏康娘を娶るに至ってようやく「氏繁」の名を名乗れた。為昌一族が後北条一門に正式に認められるまでには、かなり長い年月がかかっている。

為昌は小田原の本光寺に葬られるが、この寺は臨済宗で為昌戒名は後北条一門と同じ「宗」が使われている。この本光寺を中心にした集団は所領役帳でも見られる。御家門衆の中に「本光院殿衆」が3名残っており、それなりの規模の家臣団だったことが推察できる。

  • 山中彦十郎(知行168貫文)
  • 仙波藤四郎(知行90貫文)
  • 山本太郎左衛門(135貫文)

本光寺の所在地は不明だが、為昌妻が「花木隠居」、綱成妻が「花木殿」、氏繁が「花之木」と呼称されたことを踏まえると、小田原の花ノ木に所在したと見てよいだろう。花ノ木の蓮上院は宗哲率いる久野北条家と関わりがあるが、その宗哲妻が開基となった「栖徳寺」が本光寺住持職継承に関与している文書がある。この関連性から見ても、為昌菩提寺は花ノ木で蓮上院を介して久野北条と繋がっていたと思われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0428「北条家虎朱印状写」(本光寺文章)1560(永禄3)年

    本光寺住持職之事、任和尚御遺言筋目、初首座可有住、其外寺内之仕置等、長老被仰置如筋目、万事栖徳寺可有異見、然者、衆中一人モ無異儀、在寺肝要候、是則被対檀那申、各被重可為意趣状如件、
    永禄三年二月九日/「虎印」/本光寺僧衆中栖徳寺

浄土宗との関わり

死後は後北条一門と同じ臨済宗の戒名がつけられた為昌だが、彼の周囲を見ると、浄土宗の関係者が多いことに気づく。

玉縄北条・為昌近辺の浄土宗

  • 氏時の位牌が伝わる二伝寺は浄土宗寺院
  • 養勝院殿の木像、大頂院殿の位牌が伝わる大長寺は浄土宗寺院
  • 養庄院殿木像で菩提を弔ったのは浄土宗の高僧(安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚)
  • 朝倉氏は当初曹洞宗で、能登守から浄土宗へ転出した痕跡あり
  • 吉良頼康、朝倉能登守は熱心な浄土宗徒
  • 大道寺氏は河越蓮馨寺の創建に関わり、一門から浄土宗の僧を輩出
  • 小田原伝肇寺の移転で朝倉右京が関与

為昌が最初に発した文書(朱印状)は鎌倉光明寺への優遇策

為昌初見文書は、三浦郡の全域の一向衆を全て鎌倉光明寺に所属させるというもの。鎌倉光明寺はこの時点で関東最大の浄土宗寺院で、同宗白旗派の中心となっていた。

  • 戦国遺文後北条氏編0102「北条為昌朱印状」(光明寺文書)

    三浦郡南北一向衆之檀那、悉鎌倉光明寺之可参檀那者也、仍如件、
    享禄五壬辰七月廿三日/日付に(朱印「新」)/光明寺

後北条氏が一向宗の拡大を禁じていたのは下記の文書でも見られる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0664「北条家掟書」(港区・善福寺所蔵)

    掟
    一、去今両年、一向宗、対他宗度ゝ宗師問答出来、自今以後被停止了、既一向宗被絶以来及六十年由候処、以古之筋目、至于探題他宗者、公事不可有際限、造意基也、一人成共就招入他宗者、可為罪科事
    一、庚申歳長尾景虎出張、依之、大坂へ度ゝ如頼入者、越国へ加賀衆就乱入者、分国中一向宗、改先規可建立旨申届処、彼行一円無之候、誠無曲次第候、雖然申合上者、当国対一向宗不可有異儀事
    右、門徒中へ此趣為申聞、可被存其旨状如件、
    永禄九年丙寅十月二日/日付に(虎朱印)/阿佐布

1566(永禄9)年の60年前というと1506(永正3)年で、為昌が三浦郡一向宗を鎌倉光明寺に帰属させたのは時間軸からして合ってはいる。しかし、鳥居和郎氏の下記論文の史料解釈を見る限り、為昌のこの朱印状には単に一向宗禁圧の方針からの発給ではないようだ。

『戦国大名北条氏と本願寺―「禁教」関係史料の再検討とその背景―』

この論文によると、後北条氏の禁教は政治的宣伝が主目的で、実際に抑圧した確証はないという。氏康は永禄4年の上杉輝虎侵攻を受けて、越中の一向宗門徒を活発化させるため本願寺に恩を着せたかったようだ。浄土真宗の動向としては、むしろ甲斐との関係性・日蓮宗との対立の方が要素として大きいという。確かに、上杉侵攻時に本願寺と氏康を仲介したのは武田晴信だし、晴信の駿河侵攻で氏康と敵対した際に、相模・伊豆の浄土真宗寺院を氏康は警戒している。

とすると為昌が鎌倉光明寺に便宜を図ったのは独自判断によるもので、為昌もまた浄土宗に帰依していた。もしくは、浄土宗徒であることが確実な妻の懇願によって自身が影響力を行使できる三浦郡へ浄土宗拡大の指示を出したものと思われる。

ただし、既に記述したように為昌は死後に小田原の臨済宗本光寺に菩提を持っているから、北条養子入りを機に臨済宗へ転身したと思われる。

花木集団 浄土宗と臨済宗の混淆

後北条一門に列した為昌の菩提寺本光寺(臨済宗)が、花木集団の象徴になったことは確実だろうと思われるが、その一方で浄土宗と連携した相模朝倉氏が集団の母体になっており、それが集団の捻れた二重構造に繋がったのではないか。その点を少し検討してみる。

宗派を継承すること

譜牒余録 二十四松平相模守家臣

良正院殿が息子の松千代(照澄)の初お目見えの際に、父である家康に願い出て、松平姓を願い出て許された件。記録では良正院が「母である西郡殿の日蓮宗を受け継いだが、自分は家康と同じ浄土宗に改修するので、日蓮宗を松千代に継がせたい」と願い、家康が「であれば西郡殿の宗派を受け継ぐのだから、松千代には松平を名乗らせよう」と受諾したという。

これはかなり奇妙な話だ。徳川・松平は浄土宗徒だから、普通に考えれば「祖母も母も日蓮宗だが、松千代は浄土宗にする」と良正院が願い出た結果として、松平姓を名乗らせる方が自然に見える。

また、鵜殿氏系譜の西郷殿が日蓮宗であるのは確度の高い話だが、彼女は駿府の宝台院に葬られており、最終的に浄土宗に改宗したことは確実。

この話には裏があったと考えて解釈すると、良正院殿は自らも母と同じく改宗するので、息子の松平改姓と日蓮宗信仰を保証してもらったのではないかと気づく。

つまり、家康の子女は全て浄土宗に統一しようという政策がまずあった。しかし、鵜殿氏の頃から熱烈な日蓮宗徒だった良正院は、自らの改宗に交換条件をつけた。それが、息子の松千代の日蓮宗信仰保証と、松平を賜姓されることだったのだろう。譜牒余録の記録は、それを受けた小芝居だろうと思われる。

このことから、母から娘・息子に向けて宗派の継承がなされていたこと。それは家長の意向というよりは、個人的な嗜好によるものだったことが判る。

上記より、以下が推察される。

  • 自然な状態では、太守家中でどの宗派を信仰するかは自由だった
  • 個人が持つ宗派は、母系で継承される例があった
  • 太守の体面を保つために、一門が宗派を当主と合わせる必要があった

これらの要件が後北条家でも適用される前提で、引き続き浄土宗からの観点で俯瞰してみる。

誉号を巡る課題点

誉号とは、浄土宗の戒名で用いられる名称で、五重相伝を授けられた者だけに与えられる名誉称号。これを持っていれば浄土宗徒であることは確実だと思われる。玉縄北条家の面々を調べてみると……

  • 誉号を持たない者為昌・為昌妻・綱成・氏繁・氏繁妻・氏秀・氏勝・直重

  • 誉号持ち大頂院(為昌母ヵ)・綱成妻・氏規・氏盛

  • 戒名不明氏規妻・氏盛妻

為昌妻の戒名は「養勝院殿華江理忠大姉」で誉号はない。とはいえ、高蓮社山誉が逆修を執り行っているし大長寺も浄土宗。これは夫が臨済宗となったため、露骨に浄土宗と判る誉号を回避した可能性が高いだろう。

※ちなみに、戒名に「誉」があるのが浄土宗戒名かと思いきや、大磯地福寺の僧に「良誉」がいた。高室院月牌帳に「権大僧都法印良誉」と記されているこの人物は、相模国中郡大磯の在所となっており、「地福寺為菩提也」と補記されている。地福寺は真言宗なので、たまたま法名に「誉」が入ったのだろうか。

花木集団のその後

 為昌妻、綱成妻、氏規妻が北条家過去帳に現れないのはなぜか。為昌妻はともかく、綱成妻は氏綱の娘だろうし、氏規妻は狭山藩祖の妻でもある。この要因を考えてみると、小田原開城後に花木集団は氏直・氏規・氏勝と袂を分かったのではないかと推測できる。

1595(文禄4)年10月27日付けの「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書12_参12)で氏規・氏盛の一家が登場するが、その記述で「美濃守御前さま」を通説では氏規妻と比定している。

北条一睡入道様
北条助五郎殿様
北条御辰様
美濃守御前さま
同御つほねさま

しかし、この当時氏規は隠居しているから「美濃守御前さま」は氏盛妻(寛政譜によると船越景直の娘)。また、従来の通説だった高源院殿(北条家過去帳で氏宗曾祖母を記される人物)が氏規妻ではないという考察(北条氏規妻の実体)も合わせて考えると、氏規妻は過去帳類の記録に登場しなかったのだろう。とはいえ「北条美濃守御前」が1589(天正17)年11月に存命であるのは確実でもある(戦北4969)。

してみると、氏規妻は後北条滅亡を契機に独自の行動をとっていたと考えるのが妥当なように見える。夫の子息(氏盛・勘十郎)の実母ではなかったのかもしれない。独自行動をとったとすれば、その際、こちらも恐らく存命だったろう母(花木殿・綱成妻)と共に行動した可能性が高い。

ここで気づくのが、江戸の種徳寺。為昌の菩提寺である小田原本光寺を移設したものとされている。この寺は小笠原康広に嫁したといわれる氏康娘「種徳寺殿恵光宗智大姉」が開基となっている。種徳寺殿は他の史料に一切出てこないためその実態は判らないのだが、本光寺を移設して継承したことから、為昌娘ではないかという指摘もある。ただし、種徳寺殿は死去が1625(寛永2)年6月5日(御府内備考続編)なので氏康世代だと100歳を超えてしまう。

※夫とされる康広死去は1597(慶長2)年12月8日で享年67歳(寛永諸家系図伝)。

没年から考えると、種徳寺殿は旧新小笠原康広に奉じられた氏規妻(綱成娘)の方が可能性が高くないだろうか。その所伝が後に粉飾され氏康娘・康広妻となったとすれば、年齢的な矛盾は回避される。

種徳寺殿が氏規妻の後身だったとするなら、氏康娘でありながら一門とは違う誉号の戒名を持った母とは異なり、本光寺の為昌菩提を継承するために臨済宗の後北条一門流の戒名を選んだことになる。この点は更に検討の余地がありそうに思う。

2022/11/06(日)花木隠居・花木殿・花之木の実体

後北条家中で花木隠居・花木殿・花之木という人物がいた。それぞれを連携して考証した例がなかったので、事例を並べつつ考えをまとめてみた。

花木・花之木の比定地

家臣団辞典では「花之木」の比定地を金子郷(埼玉県入間市花ノ木)に求めている。これは所領役帳に出てくる「花之木」の知行地に「金子郷」があり、比定地とされる入間市に「花ノ木」があるため。しかし、後述するように役帳の「花之木」が知行した金子郷は寄子のために特別給付されたもので、根本的な知行ではない。この比定は可能性が低いだろう。

次に目につくのが、室町後期に名が出てくる「花之木」(神奈川県横浜市南区花之木町)。ここに因んだ名乗りである可能性もなくはない。

ただ、花木殿の所在地は高室院月牌帳で小田原となっており、関連するだろう花木隠居もまた小田原花ノ木にいたことはほぼ確実だろうと思われる。また、役帳の「花之木」も後述するように知行地が直轄領から拠出されている小田原衆であり、小田原花之木に起居したことからの呼称と見てよいだろう。

上記より、花木・花之木は小田原市浜町2丁目近辺(蓮上院・新玉小学校近く)と見られる。

養勝院殿とは何者か?

ここでまず、北条為昌妻、もしくは綱成母と言われる養勝院殿の実態を検証・確認してみる。「花木殿」が北条綱成室であるため、姑に当たる彼女の存在をまず前提におく必要があるためだ。

鎌倉大長寺には木像があり、その胎内銘にその名が残されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

「胎内腹部」
奉
造化御影像之事右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉、息女北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
「胎内背部」
并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白于時天文拾八年己酉九月十八日

  • 解釈

奉る。御影像を造化すること。この施主は故郷伊豆国の住人で朝倉名字の息女。北条九郎の御前で、お子には左衛門大夫綱成・同刑部少輔綱房・松田尾張守の妻がいる。老衰となったので菩提心を発して木像を彫刻した。並びに、12貫文の日牌銭を寄進奉る。法名は「養勝院殿華江理忠大姉」。相模国小坂郡鎌倉名越の安養院住持16代「高蓮社山誉大和尚」・仏師は上総法眼(後藤宗琢)・使者は大河(法名:善信)。

この銘の解釈では当初、北条九郎を彦九郎為昌と比定し、その養子に綱成・綱房・盛秀妻がいたとしていた。しかし当時の養子記載は男系に限られるため、盛秀妻を記載しているのは実子関係を記述したのだろうということで、北条九郎・養勝院は綱成の実親であり、為昌とは無関係という仮説も出てきた(では「北条九郎」は誰かというと、この説は不明とされている)。

しかしこれは、前記事『北条氏時・為昌の出自』で考察したように、福島為昌が北条家に養子入りしてその息子が綱成だとすれば、北条九郎は為昌ということですっきりと繋がる。以下、これを前提にして論を進める。

花木隠居

「隠居」としての記録

「隠居」という扱いで所領役帳に登場するのはこの人物だけなので、かなり特殊な存在。

  • 登場部分1 玉縄衆 左衛門大夫殿(北条綱成)内の項目

買得、百貫文、梅名内、元朝倉平次郎知行、但隠居買得

  • 登場部分2 玉縄衆 花木隠居の項目

一、買得、九拾貫文、東郡、津村内、花木隠居

  • 登場部分3 江戸衆 朝倉平次郎の項目

百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之

北条綱成・朝倉平次郎の各項目で「役の負担は綱成」とあるので、花木隠居本人名義とされる相模東郡津村内の90貫文(これも買得)もまた、恐らく綱成の役負担だったと思われる。役を負担できない点から女性と見られ、玉縄北条氏と朝倉氏を繋ぐ人物であるから養勝院殿が想起される。なおかつ役帳で隠居となっている点から見ても、為昌死後の養勝院殿が該当する。

そして、こちらもまた花木隠居と同一人物と思われるが、1544(天文13)年、江の島弁天遷宮での寄進で、松田殿、朝倉藤四郎殿名義で絹2疋を、孫九郎殿、朝倉弥四郎殿名義で小袖1重を、それぞれ「ゐんきよ」が提供している(小田原北条氏文書補遺p35)。

念のため調べてみたが、女性が「隠居」を称するのはごく僅かだが他例もある。「妙春尼書状写」で妙春尼は自署で「いんきよ」と書いている(愛知県史資料編12_525・上宮寺文書)。また、「北条氏康書状」で氏康は東慶寺住持の松岡殿の引退を「御いんきよあるへきにつゐて」と記している(戦国遺文後北条氏編1541・東慶寺文書)。

所領役帳に載っている女性

花木隠居の状況を確認するため、女性で役帳に載っている例を次に挙げてみる。

新五郎娘

小机衆にいる彼女に与えられた30貫文の知行(伊豆・田代)は、同族と見られる笠原弥十郎が負担している。

赤沢千寿の母

江戸衆で江戸高田内に15貫文を与えられている「赤沢千寿」は、千寿が成人するまでは後家が差配し、その間は役を免除されている。

北条宗哲の妻

北条宗哲の知行一覧内に「御新造様知行分」310貫文がある(白根内箱根分、戸田分、太平)。こちらの役は宗哲が代行して負担しているので、花木隠居と同じ方式。

有滝某の母

諸足軽衆にいる「有滝母」は10貫960文の知行(江戸、安方分)を与えられ、こちらは役を負担しているようだ。

有滝氏は当主の死で領地が解体されたようで、31貫文(小机、一宮)を御馬廻衆の関兵部丞が、56貫581文(江戸、小石川本所方)を江戸衆の桜井某が、それぞれ有滝氏から買得している。また、1566(永禄9)年8月20日には江戸城の有滝屋敷を豊前山城守に与える旨の虎朱印状が存在する(小田原市史資料編小田原北条651)。

つまり、解体過程にあった有滝知行地の残存部がその母名義で残っていた。諸足軽衆に配属されたのは、残存兵員の有効活用を図ったのだろう。諸足軽衆には、他の衆に所属する兵員も給田を与えられて集められているので、都合がよかったものと思われる。

以上を考えると、有滝母が例外措置で、赤沢後家のように後継者が立つまで無役とするか、宗哲妻・花木隠居のように代行者が役を負担するかの方法で男性当主不在に対応していたものと思われる。

まとめ

花木隠居は1544(天文13)年には既に「隠居」しており、1559(永禄2)年の所領役帳作成時までは存命だった。土地買収を繰り返した形跡があり、江の島への寄進でも子供たちを支援している。彼女は資産家だった可能性が高い。

花木殿

高室院月牌帳に出てきた「北条上総御内方」

寒川町史にある高野山高室院月牌帳に出てくる「北条上総殿御内方花木殿」は、綱成の妻と見てよい。1587(天正15)年11月21日に「春誉馨林禅定尼」の戒名で逆修(生前供養)を行なっている。

一方で通説の綱成妻は、新編相模国風土記により「大頂院殿光誉耀雲大姉」の戒名で1558(永禄元)年9月10日に死去しているという。

両方を合わせて考えるならば、大頂院殿が亡くなったのちに花木殿が後妻となったのかとも見えるが、高室院月牌帳を見るとその可能性は低そうだ。

まず同書での「花木」を追ってみると7件出てくる。

 項番   戒名    補記   地名   人名   取次   日付 
49 真哲恵玉 相模国西郡小田原 花木兵部卿立 1551(天文20)年3月22日
603 妙慶 相模国西郡小田原・花木 宗賢寺 ■■ 1585(天正13)年
767 光数禅定尼 相模国西郡小田原 花木小相宰 1587(天正15)年2月5日
768 理栄 相模国西郡小田原 花木小宰相母 1587(天正15)年2月5日
783 月窓宗光 順修 相模国西郡小田原 花木殿女房衆 玄仙坊 1587(天正15)年5月13日
780 春誉馨林禅定尼 逆修 相模国西郡小田原 北条上総殿御内方花木殿御自分 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
781 西来院殿 逆修 相模国西郡小田原 苅部殿内女 1587(天正15)年某月21日
782 正仏 逆修 相模国西郡久野 御前方宮内殿 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
860 栄覚春慶 逆修 相模国西郡小田原 花木■之内衆 徳蔵院 1589(天正17)年2月18日

「花木兵部卿」は恐らく、蓮上院関係の高位の僧侶だろう。官途名の「兵部卿」は武家では通常用いられず、出家者が兵部卿・民部卿・治部卿を用いた例がある。

「花木小宰相」とその母は、日付が同日なので恐らく逆修。取次の名がないので、死期が迫った綱成を前にして独自に逆修したのだろう(綱成死去は天正15年5月6日と伝わる)。禅定尼の位を持つ娘に添えられていることから、母の出自は低いと見られる。取次・日程が正室である花木殿と乖離しているため、綱成より年下の側室とその母親かもしれない。

これに比較して花木殿は二重に「殿」が用いられているほか、自らを指す「自分」に敬称が添えられ「御自分」となっている。「御自分」を使われているのは彼女と「山木様」にだけ(同書中他の19例は全て「自分」)。この待遇から考えると北条氏綱娘である山木大方と並ぶ存在。

加えて、花木殿には女房衆・内衆を抱えていたほか、氏光妻の侍女と見られる「苅部殿内女」が花木殿と同日で逆修をしている。更に取次「玄仙坊」を同じくする「御前方宮内殿」は、氏隆妻の侍女と思われる。

まとめ

これらから推測すると「花木殿」は綱成に嫁したと言われる氏綱娘本人であるといえる。綱成の妻には他に「花木小宰相」がいたようだ。

また、通説では綱成妻とされる大頂院殿は時期から見て為昌の母か姉ではないか。為昌没後も丁重に扱われていることから、為昌母(綱成祖母)という可能性が若干高いように思う。

花之木

小田原衆の謎の人物

所領役帳に登場するこの人物は、小田原衆にいた比較的大規模な被官であるにも関わらず、その後の動向が全く不明。であれば、謎の人物が混ざり込んだというよりは、既知の人物が小田原花ノ木の地名を名乗っていたと考えるべきだろう。元服し、文書発給を始めていた有力被官の中で役帳に出てこないのは、北条氏秀、北条氏繁、吉良頼康。

このうちで武蔵吉良の頼康は可能性が低い。同氏は、後北条氏との度重なる婚姻関係にも関わらず、過去帳にも一切登場せず滅亡も共にしなかった。独立性が高いが故に役帳に出てこなくても不思議ではない。もし現われるとしても、小田原衆というのは奇妙で、御家中衆か江戸衆、もしくは他国衆だろう。

北条綱成の弟である氏秀も出てこないが、当時沼田康元と呼ばれていたこの人物は、対上杉の最前線である上野国沼田にいたので載せられなかったものと思われる。

消去法で候補に残るのは氏繁だが、もし氏繁だとするなら、当時は「善九郎康成」と名乗っていた彼が役帳にその名で載っていないのはなぜか。

「花之木」の正体

改めて「花之木」の知行地を見てみる。

一、花之木
百貫文、中郡、小磯
百拾貫文、同、恩名及川
百五拾貫文、東郡、一宮之内
四拾六貫文、西郡、下中村惣領分
以上四百六貫文
此外、三百八拾壱貫六百文、金子郷、寄子給

小磯は先頭にあって本知と思われるが、その由来は不明。高野山高室院月牌帳には170の地名が延べ600回記載されているが、そのうちで「小磯」は12件があり、それなりの人口規模とは思われる。ところが役帳で「小磯」が見られるのはここだけなので、役帳範囲外に存在したと思われる直轄領の可能性がありそうだ。

高室院月牌帳に載っている相模国の地名(延べ600、地名数179)から上位を抽出すると、小田原が圧倒的に多数を占めている。他は少なく見えるが、5回以下の地名が圧倒的多数なのでそれなりの規模の集落だったと思われる。

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恩名・及川は、1582(天正10)年8月27日に綱成が堀内七郎衛門に「中郡恩名之郷弐拾貫文」を与えている(戦北2406)から、玉縄北条家と関係が深い。

東郡一宮は後北条当主に近しい人物が分け合っている(小田原衆の花之木、御馬廻衆の山角四郎右衛門、河越衆の山中彦八郎、御家中衆の山中彦十郎・富塚善十郎)。これは、後北条直轄領を氏康が一時的に預けていた可能性が高い。寄子給として花之木に与えられた金子郷にしても、1561(永禄4)年4月2日には虎朱印状で金子大蔵丞にこの金子郷は返還されている。この迅速な対応は、直轄領として扱われていたからこそのものだろう。

下中村は一貫して本光寺領(為昌菩提寺)。下中村惣領分を見ると、花之木の名前の後に続く、渡辺左衛門と西右衛門へ50貫文ずつ与えられている。

これらをまとめると、直轄領からの支給が631貫600文、玉縄系が110貫文、本光寺系が46貫文となる。

ここまでくれば、役帳に出てくる花木隠居が想起される。花木隠居が為昌妻で綱成母(氏繁祖母)とすれば、氏繁が花ノ木にいたのは不自然ではないし、小田原衆に所属するのも、同衆の筆頭が松田憲秀で、氏繁から見れば従兄弟(父の姉妹が盛秀に嫁ぎ、盛秀の息子が憲秀)だから、あながち妙な話ではない。1560(永禄3)年以前の氏繁は下総国東庄にいた東修理亮と氏康との仲介をしていたのみで、玉縄在地は確認できない。むしろ、戦果報告に際して氏康と緊密に連絡を取り合っていたことから、氏繁が氏康に直属していたことが窺われる(北条氏繁の初期所属を参照のこと)。

氏繁が「花之木」と呼ばれることの特異性

上記をまとめると、氏康が氏繁を側近として育てる意図で、小田原内の居所を為昌妻と近い花ノ木として、綱成とは一旦切り離していたと考えるのが妥当だろう。

では他の一門のように名前で呼ばれなかったのはなぜなのだろうか。この時点で氏繁は官途を持っていないものの、宗哲嫡男は「三郎殿」と記されているから、「善九郎」という仮名で記載されるのが本来の姿。それをわざわざ地名表記にしている。

地名が表記されたのが判る例としては、他国衆での「油井領」と江戸衆での「本住寺領」がある。このほか「~跡」という当主不在な領地があり、御馬廻衆での「西原弥七跡」、江戸衆での「小野跡」「川村跡」が見られる(恐らく、これ以外にも領域名があると思うが名字と区別できないため未詳)。

北条から切り離された氏照の名が出ずに「油井領」とされていたことを考えると、「花之木」は花木隠居(祖母)・花木殿(母)の後継者としての氏繁を指していて、綱成とは分立した存在だった可能性も考えられる。しかしながら、氏繁は明確に綱成の嫡男であり、それも考えづらい。氏繁が次男ならば、笠原康明・遠山康光・垪和康忠のように分家筋を直参として取り立てた例は複数存在するが、その可能性も低い。やはり、綱成嫡男を分立した意図はどうにも判らない。

あれこれ考えてみるほどに、花木集団が後北条政権の中で異端児だったとしか考えようがない。

余談だが、名字だけしか記載されなかった例として、河越衆筆頭の「大道寺」がある。名字しか書かれていないものの、この人物が源六周勝なのは確実で、4人挟んで名が出てくる一族の大道寺弥三郎の項目では「源六拘=源六の所有」という語が3回も出てくる。周勝の名が禁忌という訳でもないのだが、大道寺氏の当主が、盛昌のあとは周勝・周資で不安定だった可能性がある。名字以外を書いてしまうと揉めるため、わざと避けたのだろうか。