2017/04/24(月)史料想-1 宛所の切られた文書

古文書には宛先が切り取られてしまったものがあって、解釈や比定が難しくなることが多い。ただ、周辺の文書を読み込むことである程度の仮説を構築することは可能だと思う。それを実際にどう行なうか、書き出してみた。

以下は、宛所が切られた状態の虎朱印状で、板部岡融成が奏者を務めていることや、癸酉(元亀4年)三月晦日の発行であることは判っている。

後北条氏、某に4つの条目を伝える

一、『水窪』の替地、何のために他人が言い立てることがあるのでしょうか。とやかく言う輩がいたら、目安で報告して下さい。合目安を立ててご糾明して、決着をつけよとの仰せです。どうやれば、知行高のご決定に異議を唱えられるというのでしょうか。最近の曲事です。ご指示に及ぶほどのものでもありません。ご糾明の上、どうあっても先の証文の通りの決定になるでしょう。

一、砦のことを申し出たのは神妙です。もとより、西の方の者は国境で活躍することに極まります。どこであれ敵との境界を見立ててご指示になるでしょう。身命をなげうって活躍して下さい。もとより、知行のことは何があっても拠出しますから、ご安心下さい。

一、どこの国境に配置されても、妻子の安住が保証されなければ困るでしょうから、この度『黒谷』のうち『多々良分』70貫文が直轄領なので与えられました。早々に妻子をその地へ移し、安心していただきますように。付記、『八郎左衛門』・『喜左衛門』の妻子も、その地に置くようにとのことですから、多々良分の中に両人の妻子が住む屋敷をお渡しします。更にこの上は味方として協力することを合意して、活躍していただきますように。

一、先年に『懸川』へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

癸酉(元亀4年)三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)元亀4年

この文書は宛所が切り取られていて前後関係が不明瞭なため、まず固有名詞の比定を確認。

  • 水窪……駿東郡の水窪。
  • 黒谷・多々良分……武蔵の秩父に黒谷(くろや)が存在し、下山年表でそこに比定。岩付にも黒屋(くろや)があるが、鉱業の存在を窺わせる「たたら」から、銅山で著名な秩父黒谷の方が有力。
  • 八郎左衛門・喜左衛門……三浦八郎左衛門は実在する。

同じ海老原文書に宛所が切り取られた感状が存在するので、そちらも参照してみる。

北条氏政、某に、永禄12年7月11日の戦功を賞す

昨日の10日に『円能口』に敵が出撃してきたところ、前線で戦って敵を5人討捕ました。特に、ご自身が高名を挙げています。本当に比類のないことだと感銘を受けました。刀を1腰、一文字銘のものを差し上げます。ますますご活躍下さい。

永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

円能口……下山年表では相模丹沢を比定。山北町都夫良野とあり、小山町から酒匂川を下って小田原に侵入するルートだと思われる。但し比定根拠は不明。

上記2文書が同じ宛所である確実な根拠はないが、同時代で近い地域における内容であることから、同人物として仮定は可能ではある。その前提で2文書から宛所の人物が置かれた状況を並べてみる。

  1. 永禄12年に円能口で敵5名を討捕、自分も活躍した
  2. 水窪替地について苦情を言われていた
  3. 砦の普請を自ら申し出ていた
  4. 国境のどこに配備されるか判らなかった
  5. 妻子の居住地が危険だったため70貫文の直轄領が与えられ疎開を指示された
  6. 同じ場所に八郎左衛門・喜左衛門の妻子も移動を命じられた
  7. 八郎左衛門・喜左衛門の妻子が住む屋敷は後北条氏が準備した
  8. 元亀2年以前に掛川に派遣されていた
  9. 掛川派遣時の褒美を与えられていなかった
  10. 上記褒美は発給時の年と翌年の2回で支払われた

 妻子居住で70貫文が支給されていることや、八郎左衛門・喜左衛門といった寄子か被官、親類を引き連れていたこと、また砦普請を名乗り出ていたことから、大身の武家であるといって良いだろう。永禄12年の件では「自分でも活躍」が褒められているから、本来は部下に戦闘を任せられる身代を持っていたのだろう。


……続く

2017/04/23(日)困窮する修験者たち

どういう文書か?

年未詳だが、相模の修験者たちが後北条氏の寺社担当的役職の可直斎長純・板部岡融成に宛てて彼等の置かれている厳しい状況を説明している。

  1. 先達は前から伊勢・熊野の参詣案内役をしていたが、10年前から駿河が通行できず仕事がない。このため百姓をしている。
  2. 武蔵先達は古来から16名いて、北方8名は不動院、南方8名は玉滝坊が取りまとめ、毎年聖護院様に上納をしている。相模については、聖護院様が下向した際に「24名それぞれがお国の役に立つように」との仰せで上納は免除されている。
  3. 早雲寺殿の熊野での宝株丸の一件から、熊野導師をさせていただいているので、山伏をお使いになっている。この例にちなんで、他国への御用の時は山伏を用立てるようになった。その頃も移動代金は支給してもらっていた。また山伏も活躍して、飛脚としてよく働いた。先達衆だけに仰せになってもらえるならば、頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう。

文書の題に「修験中退転之様体御尋ニ付申上候事=修験者たちが職にいられず散ってしまった様子についてお尋ねになったので申し上げます」とあることから、この時修験者らは伊勢・熊野参詣の案内者としても飛脚としても機能せず、それを後北条氏に質問されたのだろう。

何故後北条氏がそれを気にしたのかというのは、最後の項目で「頭巾袈裟従上申咎之事、無之候=頭巾・袈裟を上から罰せられることもないだろう」に集約されている。修験者らは機能していないにも関わらず山伏の格好で百姓の生活をし、それを咎められたのだろう。そこで後北条氏が質問してきたので「修験者として生活できるならこういう罰も受けなくて済むのです」と回答している。

面白いのは、修験者たちが自らの困窮をさりげなく後北条氏のせいにしたともとれる書き方をしている点。「あなた方が戦争して参詣客がいなくなった」とか「早雲寺殿の頃から協力したのに飛脚を頼まなくなった」とか。

恐らく後北条氏としては「修験者として食っていけないなら山伏の格好はやめて」と言いたかったのだろうけど、修験者はそういう発想を持っていない。「山伏の身なりで百姓するのが変だというなら、山伏の仕事をさせろ」という主張である。中世っぽい。

いつの文書なのか?

では彼等が困窮したのはいつのことだったのだろう。この文書は年月日が一切ない。ただ関連する文書はあって、箱根権現別当で、東寺出身、山伏も監督していた融山が長純に宛てたもので、東寺門徒は「従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事=古い昔から陰陽道・七五三祓いなどは執行しない」として、それらは山伏の収益であることを認めている。これを逆に言えば、それだけ修験者たちの権利が侵害されていた日常があったのだともいえる。

※家臣団辞典では、箱根権現別当融山との交信から、長純が東寺金剛王院の僧であったと比定している。

北条氏綱後室の兄である聖護院道増は1552(天文21)年に関東へ来たという記録がある(これは4月10日の鶴岡八幡大鳥居落成に立ち会うためだったかも知れない)。山伏たちがいう免除はこの際に行なわれた可能性がある。とするなら天文21年より後であるのは確実だ。

次に「拾年已前者、駿府不通故」という点について。

「拾年已前」を「天文 or 永禄10年以前」とするか、「今から10年前は」とするかで大きく解釈が変わるが、文面からは判断が難しい

* 今川氏と対立していた頃(天文6~23の約18年間)  
* 武田氏と対立していた頃(永禄12~元亀3の約4年間)
* 可直斎長純の活動期間(弘治3~永禄13/元亀元)  
* 板部岡融成の活動期間(永禄11~)  
* ※融山は永禄6年没  

上記のうち活動期間から推測すると、「退転」文書が作られたのは永禄11~元亀頃、融山から長純への山伏利権保護文書が作られたのはそれ以前という比定が妥当だと思われる。

更に突っ込んで考えると、永禄12年以降は再び不通になっていて、ここぞとばかりに書き立てると思われるから、永禄11年と絞れる。

では「拾年已前」をどう解釈するか。天文年間は置いておくとして「永禄10年以前」なら「去年」と書くはずだ。中10年と考えて弘治3年と考えてみても3年ずれる。

であれば、3年遡って1565(永禄8)年と比定するのが妥当かも知れない。長老融山死去から2年後ということで、対応が長純と融成に任されたという可能性がある。

原文

修験中退転之様体御尋ニ付申上候事
一、相州諸先達中従前々他国江御用ニ走廻リ候意趣者、従古来伊勢・熊野参詣之者令引導処、拾年已前者、駿府不通故、一切先達打捨、只今百姓ヲ致、身命続申候、在々所々之御地頭、如斯之段御存知候、御不審ニ候ハゝ、御尋可被成候
武州先達従古来拾六人ニ御座候、然ル処、武州北方八人、古川会場不動院ト申山伏年行事相持、聖護院様江年々上分進納申候、南方八人年行事玉滝坊相持、是又毎年上分進納申候、然者御国役之事者、相州廿四人之先達斗走廻リ候、先年聖護院様御下向之砌、相州山伏分之事、可相立之由被仰付候、彼者御国役与走廻リ候由申上候ニ付、京都上分之事進納不申候
一、早雲寺殿於熊野山宝株丸船之義御座候時分、熊野導師案内仕候故、山伏ニ被遣候、依此例ニ他国江御用ニ至時者、山伏ニ被 仰付候、其時分も路銭之儀、従 御上様被下、又山伏も走廻リ候、飛脚■能懸御目候、此上先達衆斗被仰付候者、頭巾袈裟従上申咎之事、無之候、此旨御披露ニ可預候、以上、
相州衆分中
  橋本、権現堂・二階堂
  杉田、泉蔵院
  本牧、桜井坊・慶蔵院
  藤沢、毘沙門道
  室田、住光坊
  豊田、定円坊
  沼目、城光坊
  浦郷、慶蔵坊
  堀、城入院
  同所、城光院
  中村、城明院
  同、能引寺
  国府、円蔵坊
  関本、法惣院
  中野、蔵滝坊
  松田、大蔵院
  飯田、仙滝坊
  片瀬、玉蔵院
  一之宮、大福坊
  たゝ■、泉蔵坊
  一之宮、幸蔵坊
  ほとかや、海蔵坊
御申上候
江雪・長純
(注記:此両人ハ其時之寺社奉行与承リ候)
埼玉県史料叢書12_付編278「相模国先達衆言上状写」(城明院文書)


御札令披見候、然者中武蔵真言宗従五ヶ所申上候筋目承り候、惣而東寺門徒之儀、従往古陰陽道并七五三祓等執行不申事、本意候、若於田舎、為渡世、自然此所作仕候輩者、山臥方へ其役相定候事、武上共無紛候、定 御門跡御証文可為分明候、此旨御披露憑入候、恐惶謹言、
七月廿一日/箱根別当融山判/長純廻報
戦国遺文後北条氏編4559「箱根別当融山書状写」(古文書写)

2017/04/22(土)板部岡融成の新出文書

埼玉県史料叢書12には「松野文書」が掲載されているが、その中に板部岡融成書状があった。年比定は1592(天正20/文禄元)年4月12日に死去していることから、同年に比定されている。同年10月7日の家忠日記に下妻の多賀谷重経の参陣拒否に伴い融成が下向していることが書かれていることからも、この比定は妥当だと思われる。


「殊於備前十郎・良安母以下、年内計可見届由、様々被申ニ付而」は状況が不明。1595(文禄4)年の「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書参考26)では「岩付御前」は大坂の北条氏規の元にいたが、その前は宇喜多氏の庇護を受けていたのだろうか。「良安母」に全く手がかりがなく、ここで行き詰まる。


文中の十郎は北条氏房、大納言様は徳川家康、宛所の「加賀甚」は加賀爪政尚と比定。

態申達候、然者岩付松野勘七郎、十郎を見届ニ付而、大納言様被及聞召、可被召仕旨被 仰出由承及、於我等も大慶ニ存候、勘七郎親ニ候摂津守と申候者、従氏政代愚拙致奏者、別而存知之者ニ候、岩付於家中も抽而走廻之者ニ候、依之勘七郎も十郎を見届申候、彼勘七郎ニ御証文迄被下候処ニ、為十郎熊野・高野・紫野迄 致仏詣、御陣下ニ参儀遅々仕候、殊於備前十郎・良安母以下、年内計可見届由、様々被申ニ付而、無拠勘七郎今迄備前ニ踞候、此上関東へ罷下候者、弥御陣下へ参候事遅々申候間、先早々勘七郎事、進上仕度由、此度下妻迄親之摂津守参候而、愚拙頼申ニ付而、御貴殿迄申入候、勘七郎儀一廉被引立被召置候様ニ、御披露畢竟奉頼候、軈而参陣候而、猶御直ニ可申候、恐々謹言、
十月廿日/江雪斎融成(花押)/加賀甚様人々御中
埼玉県史料叢書12_参考20「板部岡融成書状」(松野文書)

 折り入ってご連絡します。岩付の松野勘七郎が、十郎を見届けたことを大納言様がお聞きになり、召し抱えようとおっしゃっていただけたそうです。私も大変喜んでいます。勘七郎の親である摂津守という者は、氏政の代より私が奏者を担当していて、とりわけ見知った者です。岩付の家中でもぬきんでて活躍した者です。こういったこともあって勘七郎は十郎を見届けました。その勘七郎に御証文を下されたところ、十郎のために熊野・高野・紫野まで供養して回って、御陣への参加が遅れに遅れています。更に、備前国で「十郎・良安母以下」が年内いっぱい見届けたいとの願いを色々と言ってきましたので、よんどころなく、勘七郎は現在備前に滞在しています。これらが済んでから関東に下って参陣したのでは余りに遅いので、早々に勘七郎を渡してほしいと、下妻まで来て親の摂津守が頼んできましたので、貴殿をお頼みしたく思います。勘七郎のこと、一際引き立てて召し抱えられますように、ご披露をお願いします。すぐに参陣しますので、さらに直接申しましょう。