2020/11/12(木)後北条氏の評定衆

前提

手持ちのデータとして集めた虎朱印状は1,010件あり、このうち虎朱印の下に被官・一門の名があるものは56%(563件)存在する。

従来の仮説では、これを「虎朱印を奉じる者=奉者」としてひと括りにしていたが、それらとは異なる独自の特徴を持つ一群が存在する。これを「評定衆」として定義してみる。両者を比較すると以下の差異がある。

評定衆 奉者
表記 名字を書かない 一門・出家以外は名字
肩書 評定衆を名乗る 名乗りなし
花押 原則据える 原則据えない
人数 8人 99人
件数 47 443

虎朱印の下に花押を据えた史料の一覧はこちら

まず登場したのは石巻家貞と狩野泰光。同じ年に、笠原綱信と清水康英が連署として「評定衆」を名乗った文書があるが、文書は写しである点、二人とも名字を名乗っている点、花押がない点から要検討として除外したい。

その後は狩野泰光が一貫して評定衆として登場し、永禄11年2月に評定衆としての活動を停止する。出家して一庵を名乗り、北条氏照の指揮下に異動したようだ。その4ヶ月後に石巻家貞が登場し、こちらもそれをもって活動を停止する。これを評定衆第1世代とする。

第2世代である石巻康保・依田康信・山角康定は、永禄12年~元亀3年の3年間で登場していく。その後、天正7年に康保の活動が停止するものの、康信と康定は後北条氏最末期まで活躍している。

  • 例外1:花押を据えた者としては、「奏者」と名乗った遠山直景のものが最も早い。1525(大永5)年だから、虎朱印の上に「調」朱印を捺されたりという形式模索が行われている頃でもある。ただ、直景の息子の綱景もまた虎朱印下の花押を据えている(34年後の永禄2年)。恐らくこれは、石巻家貞・狩野泰光らの評定衆とは別系統として存在した可能性がある。

  • 例外2:山中康豊は北条氏規の指揮下にあり、海に関する文書で登場する。康豊は永禄9年に1回だけ虎朱印下花押を据えている。「評定衆」の名乗りはないものの、「修理亮康豊」という名乗りは他の評定衆と同じ。この時期に虎朱印と評定衆のシステムで何かの異常が見られたか。

  • 例外3:石巻康敬は「石巻彦六郎」と名乗り、評定衆としては異例な名乗り。但し花押は据えている。この文書は、武田晴信の駿河侵攻に伴って北条氏政が駿東在陣していた際に発せられた軍事的指示。石巻家貞と康保の間にあって、石巻家が評定衆世襲だったすればだが、混乱があったと思われる。

  • 例外4:垪和康忠が天正9年に一度だけ評定衆となっている。これは天正7年に石巻康保が退場したことを受けて、康忠が評定衆に加わったかも知れない。康忠は奉者として最多の48回登場。奉者として突出した活躍が認められて、評定衆に登用されたか。

評定衆をまとめると、以下のように分布している。

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

虎朱印が受給者へと伝達されるルートがどのように区分けされたかを図にまとめると以下のとおり。

inban01.jpg

これら評定衆は、石巻・狩野・山角といった根本被官のみで構成されている。一方、奉者は、上は一門の北条氏規・氏照や氏邦から、下は「万阿弥」といった出家や「中将」という出自不明な人物などがごった返しているような状況。

名字は書かないことは、必ず花押を据えて個人特定を念入りにしている点と一見矛盾する。ただ、後北条の一門(氏規・氏照・氏邦ら)が名字を名乗らない(彼らの場合は受領名のみ記載)ことと合わせて考えると、評定衆たちは擬似的に北条一門の立場を持っていたのかも知れない。

後北条家中における、虎朱印奉者(取次・指南)とは異なる階層「評定衆」が存在したことの根拠史料

三例を挙げてみる。それぞれの動きを追ってみると図の通り。

inban_02.jpg

吉良氏朝の認識

吉良氏朝が山角康定に宛てた書状では、太守(氏政か氏直)への申し立てを康定経由で行おうとしたものの、康定が出陣して不在だったので幸田定治・板部岡融成と交渉した。ところがそれでは不安であり、康定の介入を要望している。

しかし、頼りにならないとした板部岡融成は40回、幸田定治は13回奉者として登場しており、奉者としてのみ見れば、氏朝が頼みに思った山角康定の5回を大きく上回っている(評定衆と奉者を合わせても20回であり、融成の半分でしかない)。

これは、評定衆の康定が奉者である定治・融成よりも上位に存在していたことを証明するものになる。

態申候、其城為在番越山之由、極熱之時分、大儀察入候、仍年来太守江申立存分■■御人数等をも被相竈御手透ニ候間、早々自身遂参府、可申立心底候処、其方其地他行、誠以恐怖千万候、雖然只今之御世間ニ無是非為如何可有之無儀候、従先段其方引付を以幸田相憑候之間、大方彼人相憑、先使者以卒■存分可得御内儀所存候、并近年加懇切候間、江雪斎をも引入可申条、両人江其方無拠在番故、氏朝申所委細有取成可被進之由、両所へ状被遣憑入候、誠其方取持之万之一も有之間敷候得共、余無際限打過儀、外聞実儀共氏朝心底可被察候、此度可取成与者不思候、責而御陣触■迄之儀候、御真実付而者、存分被立置書状待入候、委細者周防蔵人口上申含候、恐々謹言 追而幸大、江雪斎両所へ之書状之案文進置候、月日欠/氏朝(花押)/山角上野介殿

  • 戦国大名北条氏文書の研究p306「吉良氏朝書状」

折り入って申します。その城への在番のため越山とのこと。極熱の時分に大変なこととお察しします。さて、年来太守へ申し立てている存分ですが、■■兵員を籠もらせてお手すきになりましたら、早々に自身が参府を遂げて、申し立てようと考えていたところ、あなたがその地へ行ってしまい、本当に取り乱しています。とはいえ現在のところ世情ではいかんともしがたく、どのようにもならないことです。先段よりあなたが<書き留めたもの ※>を幸田に頼んでいますから、大方はあの人にお願いしています。先の使者が卒爾にもご内意を得ようとしています。そして近年は懇切を加えていますから、江雪斎も引き入れて申請していますから、両人へはあなたがよんどころなく在番しているので、氏朝の申す所を詳しく取り成してくれるとのこと。二人へ書状を送ってお願いしています。本当に、あなたの取り持ちに万が一のこともないとは思いますが、余りにも際限なく時間が経っていること、外聞といい実態といい、氏朝の心底をお察し下さい。この度の取り成せるとは思いません。せめて御陣触が終わるまでのことです。本当のところについて、存分を立て置かれた書状をお待ちしています。委細は周防蔵人の口上に申し含めました。追伸:幸田大蔵丞・板部岡江雪斎の両所への書状の案文をお送りします。

* 「引付」を訴訟案件として使用しているのは30例中で2例。25例は「味方に引き寄せる」の用例で、2例が書き留めておくこととなっている。このことと、文面から考えてこの場合の「引付」は「書き留めておいたもの」と考えてよいと思う。

野田景範の認識

野田景範は、依田康信に直訴を試みている。これは、景範と北条氏政との取次役が氏照であり、その氏照が訴訟を握りつぶしたための対抗策である。その際に康信を頼っているのは、彼が評定衆として奉者(氏照)の上位に存在していたためだろう。

(前欠)小田原へ申上候処ニ、其時之様子書付を以可申越候、可預御裁許之由蒙仰候段、氏照御返答候之間、同十四日ニ相認、滝山へ申届候処ニ、尓今不被御披露候之哉、唯今之紙面者、拙者召仕之者矢ヲ放之由被申候、都筑与申者、拙者披官山中与申者ニ矢ヲ射付申、其侭押懸、両人打留由、拙者召仕之者逃返申事ニ候、如此之仕合失面目候条、則雖可及其意趣候、無二ニ進退奉任候之間、小田原御下知を以可達本意与存知、尓今堪忍令申候、此段々難尽紙面候、此趣幾度歟源三殿迄申達候処、無御披露候事、無是非存知候、此意事宜御裁許可為過分候、以上、 拾月廿七日/野田右馬助景範/依田大膳亮殿

  • 埼玉県史料叢書12_0377「野田景範書状案」(野田家文書)1569(永禄12)年比定

小田原へ申し上げるため、その時の様子を書付にして報告しました。それを預かってご裁許するとの仰せと、氏照がご返答しましたので、同日14日に作成し滝山に届けました。今に至っても披露されていないのでしょうか。現在の紙面は、拙者が召し使っていた者が矢を放ったとのことを申しています。都筑という者が、拙者の被官山中という者に矢を射掛け、そのまま押しかけて両人が死んだとのこと。拙者が召し使っていた者が逃げ帰って申したことです。このような成り行きで面目を失ったので、すぐに意趣返しに及ぼうとしましたが、判断をどうにか保留して、小田原のご命令をもって本意を達しようと考え、今も我慢しています。この状況は紙面での説明が難しいところです。この趣旨を何回か源三殿まで報告したのにご披露されないなら、どうにもならないと思います。この意を宜しくご裁許いただければ幸いです。

落合三河守の訴え

関山隼人と当麻宿の権益を巡って係争した落合三河守は、評定衆に当てて反訴状を提出している。その中で三河守は「山角康定は自分に遺恨があるから、担当から外してほしい」と願い出ている。これは、評定衆が複数人員で構成され、利害関係によっては担当が変更になったことを示す。原告の関山隼人に勝訴を伝えた際の虎朱印状には、康定が奉者として登場している。最終通知で康定が奉者としてのみ登場したのは、この件で彼が評定衆から一旦外れ、奉者としての権限で虎朱印状を取り次いだことになる。

乍恐相書付を以申上候 一、此度当麻問屋之儀ニ付而、拙者非分ニ一月■内を上十五日、関山隼人前より取はなし、下之宿より上之宿江取上申様ニ、御侘言被申上候事、不当ニ奉存候 一、下之宿ニ問屋御座候ニ付而、下宿者いかにもさかり申候、上之宿者町人も退転申、去年之御陣返之刻ニ者、御伝馬上宿ニ相当申候得者、町人退転ニ付而、下之宿より六十疋余備申、御伝馬走廻申候、是ニ付而問屋之処、一月之内上十五日之分を、上宿江可被指上之由申断候処ニ、かんてん不被申候キ 一、上之宿江問屋被上間敷ニ付而者、他之宿なミに、上下之宿 御公用無退転様ニ、替所問屋役ニ指引可被成候由、申断候処ニ、是又かんてん不被申候 右之条ゝ、御かんてんなく候て、御伝馬参候而、上宿ニ余候御伝馬、替所迄越可申候由、町人共申断候ニ付而、如何与分別被申候哉、三月より今日ニ至而、一月之内を上十五日、上之宿江売人指上被申候間、此上者、宿中もさかり可申与存、拙者知行之内過分ニそん物を仕、宿をわりなをし、町人を置付申、 御公方用走廻候処ニ、只今事を取立、御侘言被申上候儀、不審ニ存候、但是者山角殿我等ニ四五ヶ条之御いこん御座候由及承候、以此意趣御取成候歟、此上者可然様ニ御裁許奉仰入候、以上 追而申上候、四五ヶ条之、山角殿背御機嫌候儀共、御尋之上、可申上候、以御検使御尋被成可被下候、以上、七月十六日/落合三河守(花押)/御評定衆、御披露

  • 戦国遺文後北条氏編2971「落合三河守陳状」(関山文書) 1586(天正14)年比定

恐れながら、反訴状として申し上げます。 一、この度の当麻問屋の件。拙者が無法に1ヶ月のうち上旬15日の売上を関山隼人から奪い、下の宿から上の宿へと取り上げた、という言い分で告訴されました。これは不当だと考えています。 一、下の宿に問屋がある件。下宿は盛況で上の宿の町人は退去しています。去年の帰陣される際に御伝馬を上宿に割り当てられましたが、町人が退去していたので、下の宿から60疋余りを用意して御伝馬で活躍しました。これについて問屋として、1ヶ月のうち上旬15日分をよこすように上宿に伝えたところ、承知しませんでした。 一、上の宿へ問屋が上がらないようにした件。他の宿に準じて上下の宿が御公用から逃げ出さないように、『替所』の問屋税に充当するように申し伝えたところ、これもまた承知しませんでした。 右の条項に承知がないまま、御伝馬が来ました。上宿で余っていた御伝馬を『替所』まで持ってくるように町人達に通達したところ、どのような考えでしょうか。3月から今日に至るまで、1ヶ月のうち上旬15日、上の宿へ売人をよこすように言ってきました。この上は、宿中も盛んになるだろうと考えて、拙者知行から自腹で賄い、宿の割り当てを直して、町人を置いて御公用に活躍しました。こうしたところで、今は事を荒立てて訴訟に及んだのは不審なことです。但し、山角殿が私に4~5ヶ条のご遺恨があると聞いています。この意趣によって取りなしを得ようとしているのでしょうか。この上はしかるべきご裁許をお願いします。 追伸:4~5ヵ条のことは、山角殿のご機嫌に逆らうことになりますが、お尋ねがあったので申し上げます。御検使を調査に派遣して下さい。

評定衆の人選

依田康信の正体

一族が後北条氏の根本被官として活躍する山角康定・石巻康保・垪和康忠・狩野泰光とは異なり、依田康信には謎が多い。

永禄10年12月17日の北条氏邦朱印状の奉者「依田大膳守」として登場しつつ、同年同月には野田景範の訴訟案件を受け付けており、元亀3年には垪和康忠と並んで武田家との同盟交渉に当たっている。これは、根本的には氏規被官であった山中康豊と似ているが、康豊と違って康信が長期間にわたって評定衆として活躍しており、少し状況が異なるように思える。

依田康信は天正6年から虎朱印状に登場し、評定衆とある。ただ、永禄12年の野田景範書状では、北条氏照との訴訟を康信宛てで送っており、この頃から評定衆となっていた可能性が高い。

天正13年の虎朱印状で「依田下総守殿・同大膳亮殿」とあり、彼の官途名「大膳亮」を後継者が名乗っている。このことから、康信は狩野泰光の後継者だったのではないか。

天文24年の虎朱印状に「狩野介・同大膳亮・山角四郎左衛門・松田尾張守」が奏者となった相州天十郎宛てのものがある。そして、同年3月21日の天十郎宛てでは虎朱印状の評定衆として「狩野大膳亮」があり、狩野介の後継者が狩野大膳亮泰光だったのが判る。

この狩野内膳亮は、永禄9年10月2日に「評定衆飛騨守泰光」と名乗り、11年2月10日まで活動が見られる。そのあとの永禄12年11月7日の北条氏照朱印状で奉者「狩野一庵」が登場することから、泰光と一庵が同一人物と比定される。そもそも官途「大膳亮」は文明年間から「狩野大膳亮為茂」が見られ、本来は伊豆狩野氏が称したもの。天文~永禄で活躍した狩野介は、駿河吉原城を松田弥次郎と共に守備したり、松山衆の筆頭を務めるなどしてかなり中枢に近い位置にいた被官。

つまり、官途「大膳亮」の評定衆という切り口で見てみると、

  • 狩野介
  • 狩野大膳亮 → 狩野飛騨守泰光 → 狩野一庵(氏照配下)
  • 依田大膳守(氏邦配下)→ 大膳亮康信 → 依田下野守康信
  •                      依田大膳亮

となり、狩野から依田へと名字は変わっているがきっちりと後継者に承継されている様子が判る。

してみると、評定衆は官途名に基づいた承継が前提になっていたのかも知れない。

  • 下野守家:石巻家貞・石巻康保
  • 大膳亮家:狩野泰光・依田康信
  • 上野介家:山角定吉?・山角康定

ただ、山角康定だけは前代の山角定吉の官途名が不明だが、仮名は「四郎左衛門尉」で合致しており、官途の「上野介」も同一だったと思われる(定吉自体が評定衆であった確証はないが、当麻宿訴訟では康定の前々代である定澄から関わっていたという記述があり、康定の評定衆資格は父祖から継承したと理解できる)。

第1世代と第2世代の間の断絶

第1世代を石巻家貞・狩野泰光・山角定吉と考えると、永禄7年に戦死したとされる定吉が最も早く脱落している。これを受けてか、氏規配下の山中康豊が永禄9年に登場しているが、史料では1点しか確認できず定着してはいないように思える。その後永禄11年をもって家貞・泰光も評定衆として終見となる。泰光が出家して氏照配下に転じたのを考えると、偶然残りの二人が隠居したというよりも、何らかの意図的な人事異動を想起させる。

 この直後に武田晴信の駿河侵攻があって慌ただしくなるなか、石巻康敬がイレギュラーな形式で1回登場したあとで、石巻康保・依田康信が登場して第2世代を形成する。

 この第1世代の終了は、瞬間的ではあるが評定衆自体の廃絶の可能性を秘めていたように思える。

 表で区分けしてみる。

第1世代 2人・9件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
過渡期 2人・2件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
第2世代 4人・37件
氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

 廃絶が試みられた契機は、通貨納税から現物納税への切り替えがちょうど永禄9~10年で行なわれていたことに関係すると考えてみた。良貨による通貨納税は永禄元年から後北条氏が積極的に推進していたものだが、徐々に良貨の納税率を下げざるを得ず、永禄8年5月25日には良貨30%での納税を認めざるを得なくなっていた。ただ、この流れに逆らうかのように、この翌年5月15日に先代当主の氏康が自身の朱印状によって「良貨50%とせよ」との指示を出してみたものの、同年閏8月7日には「良貨がなければ物納を認める」と再び後退。これは、郷村の退転という激しい抗議に屈した形になる。

 興味深いのは、永楽通宝を意味する「永楽」の文言が、今川・後北条ともに永禄11年から登場する点。それまでは「精銭」と呼んでいたものが切り替わっている。「精銭」の終見は永禄11年8月10日(北条氏康朱印状)で、「永楽」初見は8月3日(匂坂直興書状)。

「銭」という言葉は北条氏康が永禄元年に「品質の悪い銭を除外せよ」と通達したのが初見。このあと、永禄3年の虎朱印状で、この通貨選別によって選ばれたものを「精銭」としている。ここから考えると、「銭」に着目した氏康の時代は、永楽通宝をもって精銭とする「永楽」表記によって新しい局面に入り、この永楽表記は近世を通じて用いられていく。

 経済政策の煽りで評定衆廃止が検討されたことを考えると、市中に対する司法業務よりも金融財政に主眼が置かれた近世の江戸町奉行を想起させる。

 廃絶を企図したのは一見すると当主氏政のようにも見えるが、氏政は独自構築した岩付衆において「評定衆」を導入している。先行していた玉縄衆・八王子衆・鉢形衆・江戸衆では見られないことから、この第2の評定衆導入は氏政の意向を反映したものと考えていいだろう。であるならば、廃絶は氏康の意向と見てよいだろう。実際、氏政が駿河から帰陣するのに合わせるように評定衆の第2世代が稼働を始める。

2019/09/11(水)上杉輝虎と今川氏真の交渉年次を再比定してみる

1)「尾崎妙忍」という商人

永禄10年の駿河国。茜の売買を巡って一つの訴訟が結審する。

  • 戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)

就茜之儀、尾崎妙忍ニ 御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年十一月五日/三左元政花押・金遊芳線・伊左元慶・由内匠頭光綱/友野次郎兵衛とのへ・松木与三左衛門とのへ・他国商人中

今川氏真が茜座の利権を尾崎妙忍という人物に渡したが、他国の商人が提訴したという。この結果として、各々に許諾状が渡される。これを告知したのは三浦・朝比奈・伊東・由比という今川家被官たちで、宛先は松木・友野という馴染みの商人のほかに、他国商人。

これによると、氏真は尾崎妙忍という商人に独占権を与えていたことが判る。この尾崎妙忍とは何者か。

2)京都の「尾崎」

戦国遺文今川氏編の索引を見ると「尾崎」はこの他に1件しか登場していない。それが、在京被官の宗是が言及した「尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候」という部分。

  • 戦国遺文今川氏編2176「宗是書状」(上杉文書)

御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国与相甲和与之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、
四月廿四日/宗是(花押)/進上今林寺方丈衣鉢禅師

ここから判るのは、上杉と今川を繋ぐルートが、京を介していたという点。

(越後:輝虎→今林寺住持)→(京都:尾崎→宗是)→(駿河:今川家中)

この、宗是に今林寺住持からの書状を取り次いだ「尾崎」が尾崎妙忍だとすると、越後との外交関係から尾崎を優遇する措置を氏真が講じた可能性が出てくる。それに反発した既存勢力によって覆されたのが永禄10年11月5日だとすれば、外交関係は茜座一件の前にある程度進展していると見るべきだ。

比定し直すと、宗是書状は永禄8年比定に繰り上がる。また、義信室の帰国顛末に触れた今川被官の書状と、年欠で氏政が義信室の受け入れ準備を急いでいる書状の方は永禄9年になる。

もう一点、この文書で注意が必要。文中の「仍従屋形以書状被申入候」の「屋形」を氏真とするか、輝虎とするかで意味がかなり異なってくる。

正規ルートとして要明寺住持が持参した「屋形より書状を申し入れられ候」という状況がまずある。一方で、今林寺住持の私信「尾崎かたへ尊書」がある。少なくとも今林寺書状は宗是宛てなので、彼が「当地において拝見仕り候」の大将には入っている。但し、屋形書状について宗是は見ていないだろう。

というのは、「あの御縁の儀、仰せ調えられるにおいては、もっともに存じ候」という意見を述べているからだ。「彼御縁」であって「此御縁」でないのは、宗是は屋形書状を実際に見ていないため。ただ今林寺書状によって、それが越駿親交提案書であると把握している。

3)比定年はどう動くか

2での検討を反映させて、従来の比定と比較してみる。■は年記載ありの確定史料

従来比定

永禄10年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • <諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消(年記載あり)
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄11年
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」

今回比定

永禄8年
  • 3月12日:今川方が三河を完全に失う
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」
  • <この間の家老書状は逸失?>
  • 5月1日:義信室が大般若を真読
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」
永禄9年
  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • ■4月3日:富士大宮での楽市規定で、諸税や通関を停止するよう通知
  • <越後外交成立を受け尾崎に茜座独占を許可>
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
永禄10年
  • <独占が露見し、諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消

従来比定では宗是書状が最後尾に位置するため、申し入れた「屋形」は氏真に比定されていたが、今回試みている比定では最初の接触に当たるので「屋形」は輝虎になる。上杉家当主からの正規書状と並行して、宗是と面識のある今林寺住持による縁辺の申し込み、という2段仕掛けになっている。

従来比定では最後に来た宗是書状がどこか的外れな印象だったが、今回の比定だと自然に解釈できる。

4)義信室帰国案件との相関性

新比定では、義信室の帰国と同時期に従来型商人(甲斐とも繋がる松木・友野)を抑制して、新興商人の呼び込みをする政策が始まることになる。また、武田への不信感を露骨に表明した今川被官たちの書状もこの時期。

では、義信室の帰国は比定を1年繰り上げて問題ないだろうか。

武田義信の失脚と死がいつかは確実な史料がないため、ここからの逆算はできない。鍵になるのは、義信室が大般若の真読を行ったという武田晴信の書状。

  • 静岡県史資料編8_補遺0240「武田晴信書状」(比毛関氏所蔵文書)

急度染一筆候、和田辺麦毛純■■■、頻而告来候条、来■日■井田■、四日■和田■移陣候、然者人数一向不調候、苻内可被相触候、次駿州江信虎様御越候哉否、節々彼国之模様被聞、註進待入候、随而於于旗屋之祈念之事、無疎略御勤行尤之由、不閣可有催促候、恐々謹言、
追而、新造御祈祷真読大般若之事、駿州江被聞候条、無疎意可被申付候、
五月一日/信玄(花押)/高白斎殿・市川七郎右衛門尉殿

この追伸では「新造がご祈祷で大般若を真読すること、駿河へ聞こえるだろうから粗意のないように」とある。義信室は何を祈るために大般若を真読したのか? 般若経は氏輝死去・氏康危篤で持ち出されている大掛かりな行事。なおかつ、真読となれば相当長い時間がかかる。夫の生死に関わることとしか考えられないところだが、少し深読みしてみる。

この段階で今川から帰国要望は出ていたのだろうか。三浦氏満と朝比奈泰朝連署書状を見てみる。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、
四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

これによれば、彼女の帰国は氏康父子が仲介したという。この仲介に答えて晴信が「氏真の起請文がないのは問題だ」と言い立てている。状況を考えると、その前段で義信室の帰国が拒絶されており、やむを得ず後北条に声をかけたのが想起される。但し、後北条の仲介で初めて起請文と言い出したことから、晴信は当初、別の理由で帰国回避していたのだろう。

上記を合わせて考えると、今川からの帰国要請を回避するために「大般若真読」を持ち出したと考えられる。これだと「駿河にも聞こえるだろうか」という文面とも馴染む。

上記の諸要素をまとめると、永禄8年5月の段階で既に駿甲は緊張関係に突入している。そして、その裏には義信死去を察知した輝虎の素早い工作があったようだ。

但し、この緊張関係から後北条氏は距離を置いていたようで、永禄11年8月に至っても小田原海蔵寺のために武田氏は伝馬を出している( http://www.rek.jp/0134 )。また、北条氏政が義信室を伊豆三島に引き取る際の文書解釈で専門各書に混乱があるので要注意( http://www.rek.jp/096 )。

蛇足

それにしても、義信室の様子は痛ましく思える。夫を奪われた挙げ句、実家に戻さないために長時間の祈祷を強要されているし、やっと戻ったと思ったら追い立てるように実家を焼かれてしまう。義忠室から始まって氏親室・晴信室・氏康室が繋ぎ、三国の娘たちに引き継がれる筈だった閨閥政治が、最も大きな影響力を行使した氏親室の死去を待ちかねたように崩れ去った。そんな中でも、死に至ったのは北条氏政室(晴信娘)と葛山氏元室(氏綱娘)。意外にも、義信室(義元娘)と氏真室(氏康娘)は近世まで生き延びている。

2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

2019/03/30(土)足利政知死後の北条御所

円満院殿の実像が垣間見える史料

 下記は『拾遺京花集』に収められた円満院殿・潤童子の三回忌法語。著者は相国寺の横川景三(播磨出身の僧侶)。

足利政知後室の三回忌の法会(拾遺京花集・韮山町史中巻552ページ)

円満院殿拈香法語
延徳三年、円満院殿拈香、相公弟潤童子、相公母円満院殿、同日逢害、女中有、大丈夫出任姒興周、如昨日、君不見豆駿以東、冨士烟、挙香云、紅爐手練天雪、大日本国山城州京師位大功徳源朝臣義高、明応二年歳舎癸丑七月一日、伏値皇姒円満院殿月岩大禅定尼大祥忌之辰、就于当院設大斎会、造仏像金之木之、抽経王、書者印者、修慈懺摩法

「女中」は女性配偶者を指す。この場合は「女中=円満院殿」「大丈夫=政知」と思われる。

「興」は「輿(こし)」の誤記ではないか。とすれば意味が通る。

「奥方様がいた。夫の鎌倉公方就任でで出立する時の姒<=彼女o姉>の輿周りの様子は、昨日のようだ」

「紅爐」は燃えている炉で「紅爐一点雪」の禅語と懸けている。噴煙を挙げる富士山を紅爐に見立たもの。

「伊豆・駿河より東を見ることがなかったものの、彼女は一心不乱だった。それは富士の様子が紅爐一点雪を体現しているようなものだ」

「皇姒」は不明。「姒」を姉と読むならば「武者小路種光の姉」となろうが、「皇」の字に違和感を覚えるし、その前の方の文にある「姒輿周」の「姒」は「彼女」と読むのが適しているように見える。こう捉えるならば、円満院殿は内親王という扱いになる。政知に嫁す際に天皇猶子となったか。

「潤童子」は戒名。幼名は他にあった。「童子」を伴う幼名は他例なし。

「円満院殿」は戒名で、生前の呼び名ではない。

足利義澄は母と弟の死亡日を把握しており三回忌を行なった。

後に駿河から京に送られた娘もいた筈だが、ここでは言及がない。

推論

 史料の整理前ではあるが、ひとまず思い浮かんだことを書き留めておく。

周辺状況

  • 1482(文明14)年の都鄙一和によって政知が鎌倉殿になる可能性はなくなり、伊豆を堪忍分として確保した矮小化された存在になっている。これを受けて政知は息子の清晃を京の香厳院に送った。香厳院は政知が還俗前にいた寺院で、政知としては息子を戻してリセット、自身は伊豆に留まる判断をしている。
  • 政知の跡目を巡って異母兄弟で係争があったとする後世編著は、伊豆を起点に関東に広がった後北条の事績と、明応政変による義澄将軍任官を前提に案出されたものと見られる。
  • 都鄙一和によって行き場がなくなった挙げ句に死去した政知の跡目は、政知死去直後だとさほどの魅力を持たないのではないか。

政元室の動き

  • 残された政知室は京にいる長男の元に行こうとし、忌明けに出立する予定だった可能性がある。
  • 足利政知が1491(延徳3)年4月3日に死去したのは同時代の複数史料で確認できるため、確実。1497(明応6)年7月2日付けの富士浅間物忌令(戦今106)によると、父母の物忌みは120日とされる。
  • 母子が殺されたのは政知死去87日後、百ヶ日の13日前で初盂蘭盆会の14日前。この盂蘭盆が一つの目安かも知れない。
  • 120日の忌明けまでは盂蘭盆会から19日あるが、路次準備を考えると、帰京の本格準備にかかる辺りか。
  • 「逢害」とあることから、政知室と二男は殺害されたことが判る。とすると、二人の京行きに反対する者が、両名を殺害した。

殺害者

  • 関東勢には動機がなく、今川は当主空位で動けない。上杉政憲が怪しいかも知れない。犬懸は今更関東には戻れないし、京にコネもない。
  • 政知妻子の帰京に伴い伊豆を山内に返還となれば政憲の行き場はなくなる。これに加えて、政憲の姉妹か娘が政知の子を生んだとすれば、この子を担いで独立を図ったか。これが「茶々丸」で、実名を持たないのは幼児だったからかも知れない。
  • 後に駿府から京に送られた義澄妹は上洛後に消息を絶つ不可解な動きをするが、この妹は「茶々丸」と同じ母を持っていたとすれば、後に追放となったと考えられ筋は繋がる。

その後

  • 政憲の計画では、母子病死とし北条御所の外戚となること。暫くは問題にならなかったが、その後義澄が将軍になり、政憲追討を企図する。対立した上杉は動けなかったため、今川にいた伊勢宗瑞が伊豆に入り政憲を追い出す。宗瑞はそのまま伊豆での在国奉公衆となる。
  • 伊豆が元々山内の分国だったことから、扇谷は宗瑞の伊豆入りを容認し、対する山内は政憲を引き取る。但し、政憲は将軍生母と弟を討っているので正式には受け入れられず、更に甲斐に逃げ行き場を失った。

2019/02/13(水)徳川への改名と泰翁慶岳

誓願寺長老は訴訟でそれどころではなかった

松平から徳川への改名で、三河出身の泰翁慶岳(誓願寺長老)が協力したという説があるが、同時代史料を見る限り泰翁慶岳は絡んでいない。永禄8~9年という同時期に、誓願寺は円福・三福両寺との訴訟を抱えており、公家を巻き込んでゴタゴタやっている。この様子は『言継卿記』に詳しい。片がついた永禄9年2月6日、泰翁慶岳は三河に戻り勢力確保を目指す。

この時に山科言継は泰翁慶岳に松平和泉守宛の書状を託している。これは、和泉守と言継は駿府で交流があったため。

ただ、誓願寺訴訟にかなり深い部分まで関わり和泉守とも親交の合った言継は、家康の徳川改名に関しては何も記していない。つまり、日記を読む限り言継と泰翁慶岳は、徳川改名とは無関係といえる。

誓願寺文書の解釈

この状況を踏まえて、泰翁慶岳が改名に関わった根拠とされる誓願寺文書を見てみる。

先度如申、 勅使之儀、于今抑留候処、切々被仰出候、可有如何候哉、馳走候様御異見肝要候、次松平家之儀、徳川之由慶源申候、彼家之儀者、昔家来候き、定而其国ニも可為分別候、如此申通事、寄特被存候、自然者望等之儀候者、随分可令馳走候、猶慶源可申候也、状如件、
十二月三日/(近衛前久ヵ花押)/誓願寺

  • 愛知県史資料編9_0529「某御内書」(誓願寺文書)1566(永禄9)年比定

先に申しましたように、勅使のこと、今も抑留されているところで、何度も仰せ出しになられています。どのようにあるべきでしょうか。馳走されますように、ご意見されるのが大切です。ついで、松平家のこと、徳川であると慶源が申していますが、あの家は昔家来でした。きっとその国で分別を働かせてくれるでしょう。このように通じることは奇特なことです。ですから望みなどがあれば随分と馳走してくれるでしょう。さらに慶源が申します。

この書状は、抑留されて帰ってこない勅使の様子を尋ね帰洛への尽力を要請したもので、誓願寺長老が三河に行った永禄9年以降のものと思われる。

差出人は不明で、花押は近衛前久とは異なる(朝野舊聞裒藁では「勧修寺大納言」とあるが信憑性に疑問)。京の松平氏が仕えていたのは細川・伊勢で、公家との繋がりは不明。

差出人は、三河の松平家が今では徳川と名乗っていることを誓願寺使者の慶源から聞いて、その家は昔家来だったから協力してくれるだろうと記している。「勅使」を、家康の改名・任官を伝えるものと解釈している説があるが、「次」という付加条件のあとに「在地の徳川は昔家来だったので協力してくれるだろう」とあり、この書状の本題はあくまで勅使の帰還要請にあり、徳川は「そういえば昔の家来だった。すごい偶然だから声かけて」くらい。

勅使の目的は、結審した訴訟の結果を通達し履行を見届けるものだったのだろう。ただしその勅使は相手方の円福・三福両寺に拘束されてしまったと。

もう一つの考え方としては「家康が勅使を抑留」という読み方も可能ではある。しかしそれだと、「分別を働かせるだろう」はよいとして「望みがあれば随分と馳走してくれるだろう」はちょっとおかしい。

やはり抑留当事者が別にいて、家康がその仲介者として奔走するという解釈の方が、この場合は自然かと思う。

徳川は源氏なのか藤原氏なのか

政局から考えると、織田・朝倉・上杉に上洛供奉を要請していた足利義昭の存在がある。この時に松平家康にも要請があった。とはいえ、三河からの上洛を確実にするためには、今川氏真と和睦させるなければならない。となると、家康の三河当知行を中央が承認する必要があった。ここから、徳川改名・三河守任官の動きになったのではないか。永禄4年から源氏を称していた家康は源氏の徳川を希望したが、将軍職の争奪があったことから源氏を避けて藤原氏としての打診があり、家康も受諾したものと思われる。

参照史料

足利義昭上洛の供奉について、松平家康が返信する。

如仰今度 公儀之御様体無是非次第候、就其 一乗院殿様御入洛之故、近国出勢之事被仰出之旨、当国之儀不可存疎意候、此等趣御意得専要候、猶重而可得御意候条、不備候、恐々謹言、
十一月廿日/家康(花押)/和田伊賀守殿御返報(上書:和田伊賀守殿御返報 松平蔵人家康)

  • 愛知県史資料編9_0456「松平家康書状」(和田家文書)1565(永禄8)年比定

足利義昭上洛の供奉を織田信長が引き受ける。

就御入洛之儀、重而被成下、御内書候、謹而致拝謁候、度々如御請申上候、 上意次第不日成共御供奉奉之儀、無二其覚悟候、然者越前・若州早速被仰出尤奉存候、猶大草大和守・和田伊賀守可被申上之旨、御取成所仰候、恐々敬白、
十二月五日/信長(花押)/細川兵部太輔殿

  • 愛知県史資料編9_0459「織田信長書状」(高橋義彦氏所蔵文書)1565(永禄8)年比定

抑留された勅使の帰還を誓願寺に依頼する。

先度如申、 勅使之儀、于今抑留候処、切々被仰出候、可有如何候哉、馳走候様御異見肝要候、次松平家之儀、徳川之由慶源申候、彼家之儀者、昔家来候き、定而其国ニも可為分別候、如此申通事、寄特被存候、自然者望等之儀候者、随分可令馳走候、猶慶源可申候也、状如件、
十二月三日/(近衛前久ヵ花押)/誓願寺

  • 愛知県史資料編9_0529「某御内書」(誓願寺文書)1566(永禄9)年比定

徳川への改名が近衛前久を通じて家康に伝えられる。

改年之吉兆珍重々々、不可有休期候、抑徳川之儀令執奏候処勅許候、然者口宣并女房奉書申調差下之候、尤目出度候、仍太刀一腰遣之候、誠表計ニ候、万々歳可申通候也、状如件、
正月三日/有書判/徳川三河守殿

  • 愛知県史資料編9_0541「近衛前久御内書写」(三川古文書)1567(永禄10)年比定

三日、晴、(中略)こん衛とのより、藤宰相して申され候、徳川しよしやく、おなしくみかはのかみくせん、頭弁に御ほせられて、けふいつる、おなしく女ぼうのほうしよもいつる、(後略)

  • 愛知県史資料編9_0542「お湯殿の上日記」1567(永禄10)年1月
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